チュニジアだより Part2


by Reiko Nakamura

 

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New モロッコからこんにちわ 2014.06

オーストラリア先住民との出会い:2009年4月

 

わたし小さな

Reiko Nakamura

 

日の沈む国―マグレブ

§チュニジアはアフリカ大陸の北に位置するモロッコ、アルジェリアとともに日の沈む国、マグレブの一国だ。日本ではワールドカップでの対戦で、その名を知る人が急増した。その歴史は古く、西洋史の中では見逃すことのできない、大切な1頁を担っている。古くから移住してきたフェニキア人(今のレバノン辺りに住んでいた人々)により紀元前814年頃に都市国家カルタゴが建設され、その後ローマ、ビザンチン、アラブとその数々の王朝、オスマントルコ、フランスの治世を経て、多くの文化がその影を落とし、今はヨーロッパの香りが強い、アラブの国とでも言おうか。

遠い国―ブドウ畑にオリーブの畑

§首都チュニス近郊では、白い壁に青い窓枠の家々が地中海の青を背景に、その美しい町並みを魅力的に見せている。西には、ローマの穀倉地帯と呼ばれた麦畑が広がり、東部海岸地方にはサブハといわれる、海面より低く塩分の多い不毛地帯が延々と続くが、その東側にサヘルと呼ばれ、チュニジアの真珠ともいわれる地中海海岸が展開している。カルタゴの歴史と共に始められたブドウ畑がサヘルの北に、オリーブ畑が南に広がり、さらにその南には、広大なサハラ砂漠が横たわる。西にアルジェリア、南東にリビアの隣国に挟まれまれ、国土は日本の4割強という小さな国で、日本とは人々も文化も自然も、地理的にも大変かけ離れた遠い国である。

§魚類生態学の仕事のために、シニアボランティア(SV)として当国に2年間の予定で赴任してきた夫の随伴家族として、このチュニジアにやって来たのは、今から1年9ヶ月前の事である。ボランティアとしてやってきた夫に随伴する私は、大変おおげさな表現であるが、この2年間はチュニジアのために、私でもできることを何かしたいと、願ってやってきた。しかも、50名余のSVと、それぞれの勤務先の方々、チュニジア外務省の方々、多くのチュニジア人やSVの随伴家族など、大変多くの方々が出席されたJICA主催の歓迎会の席で、こうした抱負を私の挨拶の中に加えたために、予期せぬ大きな拍手喝采をいただいてしまった。

害者施設を見学する機会

§赴任してから2ヶ月弱のある日、首都チュニスの障害者の施設を見学する機会を得た。その施設には、100人ほどの障害者がリハビリを受けながら、洋裁、金属工芸、電気、コンピューター、手工芸、皮細工など様々な訓練作業を行って自立への努力をしている。そこは政府運営なので、いろいろな面で大変恵まれており、充実しているが、そこに入所することは大変難しいとのこと。競争率が高くて、特別なコネでも無ければなかなか入所できないとのことであった。では、ここに入所できない人は、との質問に、私立の施設に行くか、行く所が無いとの答えだった。その時以来、シニアボランティアの随伴家族の私にも、そうした人々のために、どんなに小さいことでも何かできることがある筈と言う模索が心の中に芽生えた。実は、私は夫とともに長年研究の仕事に携わってきたため、勿論、ここチュニジアでも、ボランティアとして夫と共に、毎日研究所に出勤して仕事をしているのである。

感謝する毎日

§また、赴任するまでの東京での語学を含めた研修、赴任するに当ってのJICAの手厚い保護、着任してからのオリエンテーションや語学研修、現地調整員の方々の手厚い保護を受けて、やっとこの国に落ち着くことができたのである。さらには国外での身分保障まで、大変充実している現実を知り、改めて感謝の念が溢れてきた。今まで海外に住んだ数々の経験では、すべてを自分たちでやってきたので、そのありがた味を殊のほか大きく感じる。おまけに、始めてイスラム世界で生活し、素晴らしい体験をする機会に恵まれ、この国に住まわせてもらっていることも、不思議な出会いと思いながら、それら全てに対する感謝の念は計り知れないと思いながら、日々の生活を送ってきたのである。

§チュニジア第一の産業は観光業であり、2000年の統計によると、940万の人口に対して、年間、主にヨーロッパから505万人もの観光客を迎えているにもかかわらず、チュニスには日本食のレストランは皆無で、アジアの食料品店も無い。辛うじて東洋の味を味わえる所は2軒の中華レストランと1軒のタイレストランぐらい、しかも、それらは観光客相手の高級レストランで、高級ツーリストホテル内にあったりで、一般の人々がたやすく行けるような所ではない。

§また、ある高級ホテルがカクテルラウンジを改築して、寿司バーをつくろうと綿密に計画をたて、いよいよ寿司職人を探そうというところまで話が煮詰まった昨春に、時期を同じくしてアメリカによるイラク攻撃が始まった。そのため、観光客激減との予測で、その計画は白紙撤回されてしまった。結果的には、皮肉なことに、SRSとイラク戦争のために、方向変更した観光客が逆にチュニジアに増えたとの話も耳に入ってきた。

§チュニジアに居を構えた2ヶ月後に、夫を任地に残し、諸々の用事のために、一時チュニジアを去り、パリ、日本、シドニーと駆け足で2ヶ月間廻ってきた。とりわけ印象に残った光景、フランス人やオーストラリア人が好んで寿司を食べている姿が帰りの飛行機の中で脳裡にこびりついて離れなかった。その上に、見学させていただいた施設の人々や施設に入れない人々のことが、幾重にも重なった。これからやっと落ち着いて、チュニジアでの残る20ヶ月の生活を始めることへの思いを胸に秘めて、着陸体制に入っている機内から、ぼんやりとカルタゴの景色をながめていた。ふとその時に名案が浮かんできた。お寿司を作ってチャリティーディナーをしてはどうか。やってみたい。

チャリティーディナーでお寿司を

§チュニジアの人たちにも、今や世界中にその名を知られ、欧米で愛され、ヘルシーフードと評価されている寿司を紹介できないものか。日本の食文化を紹介できる良い機会であろう。さらには寿司を通して、いろいろな人々が出会う機会を作ってみたい、と名案ならぬ迷案が頭の中をグルグルとまわり始めた。

§私にとって、魚は仕事の関係もあって、解剖から標本作り、飼育までと大変縁が深く、また、外国に行く機会が多かったために、魚を食べたければ鱗落とし、三枚おろしなど全ての作業を自分でしなくてはならず、新鮮な魚の見分け方、おろし方、調理の仕方は得意であったが、にぎり寿司にいたっては、転がってしまうようなものを作ったことはあるものの、得意の中にはない。しかも、日本からの寿司の材料である米酢、昆布、海苔、ワサビや醤油などの調達を考慮すると、前途多難であることは歴然としていた。しかし、2時間15分のフライトでパリまで行けば、これらは簡単に調達できる。いや、もしかしたら、ワインビネガーでも寿司ご飯はできるかもしれない。寿司パーティーの可能性もまんざらではない。

招待しても来てくれるかしら?

§とある日、JICAの方にその話をすると、こともなげに、食べに来る人なんかいないんじゃないの。“ご主人と僕と2人で大金はたいて食べに行ってあげるよ”と慰めてくれた。本当にそうだろうか。いや、絶対食べに来てくれる人はいるはず、と心の中で繰り返していた。

§それを実現するためには何としても、地元のものを利用して、美味しい寿司を作らなければならないと言う大きな課題をかかえた。お米の安定供給の確認、魚市場に通い、魚の鮮度と種類を調べ、ワインビネガーでの寿司ご飯作りの実験を繰り返し、丸いフライパンで四角い卵焼きを作る、日本から持参の大豆での納豆作り、また、お米がいわゆる外米だが、それをうまく握る、地元のもので寿司に利用できる物の発掘、などなどいくつかのハードルをクリヤーして、やっとのことで、それらしき寿司ができるようになった。日本から調達してきた電気釜も、出刃や刺身包丁など5本の包丁もその威力を発揮してくれた。試食をして下さった人々が、旨い、美味しい、と言って下さるようになるまで、約ひと月。仕事を終えて帰宅してから、魚をおろしたり、週末には試食会をしてという試行錯誤が続き、やっとチュニジア産の握りずしが、しかも素人の手で、できあがった。チュニジア日本大使館のお抱え料理人の試食による、お墨付きもいただいた。

お米もあるし、タイもスズキもクロマグロもある

§その昔、お米は北アフリカのアラブの人々にとっては特別な食べ物であったそうだ。チュニジアでは料理の嗜好もあり、小麦が主食の座にある。パサパサなインディカ種(長い粒)の米は割に簡単に入手できるが、お寿司に使えるジャポニカ種(短い粒)のお米は特別な所に行かないと入手できない。チュニスの北にあるアリアナのリビアンスークで売られている。聞くとことによると、この米は中国がリビヤに寄贈したものをエジプトで栽培し、それがチュニジアに輸入されているとのことであった。袋に書かれたアラビア文字を読みたくて、研究所の人に読んでもらった結果、その事実が判明した。どうりで日本の米とは随分違うものだと、納得。

§さて、問題はいかに鮮度のよい魚、イカ、タコ、エビなどを揃えるかである。日本のように市場の数も多くはない上に、売られている魚種も少ない。もともと生物多様性の低い地中海の魚種は多くない。ちなみに地中海の魚種数約600、日本近海のそれは約3600種である。その上、オーバーフィッシングのために、魚が小さく貧相である。天気が悪いと市場には魚が極端に少ない。おまけに、魚の扱い方が非常に乱暴なので、痛んだものが多い。だが、栽培漁業によるタイとスズキが年中あり、大西洋を回遊して地中海に入ってくるクロ(本)マグロがある。季節によっては本マグロも、運がいいとそのトロまでも買える。大丈夫、お寿司が出来る。ゴーサインである。

§まずは日本人の方たちに食べていただきたいことと、単身赴任でこられたシニアボランティアの方々の食べることへの日々のご苦労を少しでも軽減したいし、一緒に赴任した仲間たちが一堂に会する機会を持ちたいなど、色々な要因を考慮して、いよいよ第一回チャリティー寿司パーティーが我が家で開催される運びとなった。

いざ寿司パーティー開催へ

§案内状を皆さんにメールで送り、その主旨を伝え、参加者を募り、買い出しをし、魚をさばく、これがまた大変なことである。その魚から握り寿司のネタを造る。2〜3の野菜料理も加えて20名ほどの人々のお腹を満たすのは、そう簡単ではなかった。日本での魚の調達とはわけが違う。とりわけ新鮮で握り寿司に使える魚を手に入れることは、毎回の準備の中で、一番重く心にのしかかる課題である。魚が何も買えずに苦しんでいる自分を夢の中で見ることさえある。もちろん当日では間に合わないので、前日までに全ての材料を整える。そのためには、いかに魚の鮮度を保つか、魚の筋肉の熟成を考えたり、鮮度を保つために塩や酢を使ったり、何しろ悩まされる魚たちの問題は大きいのである。

§回教徒の国であるが、チュニジアでは、お酒も自由に飲めるので、アルコール飲料はご自分でお持ちください。ビールは冷えたものを実費で売ります。日本茶とソフトドリンクスは、ただで用意します。とまでは良かったが、果たしていくらの参加費を徴収することが妥当なのだろうか。その中からチャリティー基金を捻出しなくてはならない。赴任後の約1ヶ月、家が見つかるまで、いやというほど外食をし、庶民のレストランから高級レストランまで食べ歩き、いい加減いやになってしまったことを思い出し、その頃の日記をめくり、また、研究所の方々に外食をすると、チュニジアの人々はどのくらいの額を出費するのかなどを尋ねてみる。

§かつて、欧米で日本食は高級で、庶民の手の届かないものであった時代のことを思い出したり、現地で手に入らないものをも供することを考え、どのくらいチャリティー基金が捻出されるかも皆目見当がつかないまま、お寿司をできるだけチュニジアの人々に紹介することを最優先と考えて、結局は一人20ディナール(1ディナール90円)と設定した。これが妥当な線であるかどうかは今もって分からない。寿司の食べ放題だから、許されることだろう。こうした計画を立てて、実行に移す際に、友人に話をすると、あっという間にお手伝いをと、参加費を払ってのボランティアをしてくれる奇特な人々が現れ、感謝、感謝である。

The Salon La Marsa

§それでは、拙宅に名前を付けようではないか。これから先どんな人々が参加するかもわからず、何が話題にのぼるかも見当すらつかないが、かつてフランスを中心とするヨーロッパで邸宅のサロン(客間)を会場にしてご婦人が主催した社交的な集まりで、芸術、学問、政治などが論じられたというあの“サロン”を夢見て。また住んでいる地域がラマルサということもあり、日本語では“サロンらマルサ”、英語では“The Salon La Marsa” となった。そんなに素晴らしい家ではないが、目標だけは大きく、名前負けしないように、少しでもそれに近づくためにも、努力の甲斐があろうか、内心では冷汗ものだが。

§かくして、“サロンらマルサでのチャリティー寿司パーティー”は、ゆったりとその歩を進めることになった。それは、はるばる日本からやってきて、ここチュニジアの地に腰を下ろして半年余りのことであった。たった2年間の赴任期間であるが、できることをしたいとの希望が少しずつ現実になってきた。

チャリティーイベント―ささやかなボランティア活動

§実は日本で以前からずっと続けていた私の小さなボランテイア活動の一つに、チャリティーイベントがある。日本では、国際交流を目的に、音楽家を招いてのホームコンサートやイギリスのハーブの専門家を招いてのハーブの講習会、ハーブを使ったお食事会など色々なイベントを我が家で行い、その利益をネパールの学校や病院の建設のために、また、アフガニスタン難民キャンプの教育基金のために、寄贈してきた。新しい国にやってきて、それらの続きができるとは毛頭思ってもみなかった。しかし、こうした経験がここチュニジアの地で始めたイベントを成功させるために、大いに役立っている。先を見通して物事を進めたわけでもない、その都度出たとこ勝負であるのに、大変不思議な気がする。

§第1回には、一緒にチュニジアに赴任した第3次のSVが参加してくれた。握り寿司がズラリと並ぶテーブルを見て、歓声が湧く、何度も何度もおかわりに通う人、幸い手に入ったクロマグロの握りに舌鼓を打つ人、食いだめができないかな、あと2−3個は食べられたかな、などと日本食とは遠い世界に住む人々が出くわしたお寿司であった。楽しそうに歓談をし、美味しそうにお寿司を食べている人々の笑顔と満足気な様子を見ていたら、ワインビネガーを使ったご飯なのに、などの余計な心配がすっかり飛んでしまった。おまけに朝から一日中立ちずくめであったための疲れも何のその、これからこの調子で行けるぞという可能性を確信できた。片付けを終えてから夜半に会計をし、反省とともに記帳した。収支決算で黒字である。やったー。深夜の心に痛く響く。早速に参加をいただいた方々への御礼とでき上がった基金の額を報告するために、直ぐにメールを打つ。このことはイベントの後に毎回欠かさずにしたいことでもある。

§参加者集めから買い物、料理番、ホスト役にオーガナイザーなどイベントをするために割かれる時間が大変大きいうえに、毎日の研究所での仕事の都合などを考えると、月に1回のペースがやっとのことだった。チュニジア人はもとより、色々な国籍、職業などなど、バックグランドの違う多くの参加者を集めることも、始めの内は苦労の一つでもあった。

§幸い、第2回、第3回と月1回の活動を続けているうちに、友達を連れての参加が増え、段々と口コミで、サロンらマルサのイベントが拡がりはじめてきた。

§いろいろな人に出会うたびに、この小さなチャリティー活動を紹介した。この国の言語であるアラビア語、フランス語ができない私には、大変なハンディーであるが、あらゆる機会にと、英語を話す国際婦人会の総会で、紹介をさせてもらったこともあって、外国の人が増え、宣伝活動が一人歩きし始めた。チュニジア人の友人も助けにきてくれる。アフリカ開発銀行からも貸切を頼まれている。嬉しいことに、人集めのための努力よりも、いかにお断わりをするかという方に力を入れることになってきた。昨秋ごろから、日本の人が入る余地がずっと少なくなってしまった。年末頃からは毎回30名で打ち切りの状態である。ちなみに当日握るお寿司の数も300個近い。五合焚きのお釜を早朝から4回もフル回転している。

§運良く、駐日チュニジア大使であるハンナシ大使が休暇でこちらにお帰りになられた際に、チャリティーイベントのことが耳に入り、2度に渡って大使ご自身から積極的な御参加をいただき、しかも、パーティーで日本とチュニジアの関係についての素晴らしいお話を伺うこともできた。"日本の製品はお金で買えるけれど、文化はお金では買うことができない"と、この活動を高く評価してくださり、駐日チュニジア大使館が是非とも後援をし、全面的に支援していきたいとの、ありがたいサポートもいただいた。

みんなが応援してくれる

§日本の友人たちもチュニジアでの、私の小さなボランティア活動を応援してくれ、たくさんの醤油やワサビや海苔などを送って下さった。チュニジアに来られる友人達が、日本から、アメリカから、そしてフランスから、お醤油を始めとする日本食の材料を運んでくださったお陰で、今のところ、たった一度パリに買い出しに出かけただけで、潤沢に使える日本食の材料が手元にできあがった。

§では、ここでメニューを紹介しよう。握り寿司は、

本マグロ、スマ、カンパチ、サカタザメ、海老、 タイ、ハガツオ、イワシ、アジ、コウイカ、ヤリイカ、タコ、スモークサーモン、パリからの数の子とカニアシ、卵焼き、巻物は牛肉そぼろ巻、カッパ巻、たくわん巻、ツナマヨネーズ巻、海鮮巻き、納豆巻、干瓢巻、イカウニ巻、ホーレン草巻、卵巻、高野豆腐の太巻き

であり、前菜として焼き鳥が加わり、甘酢生姜とはいかないまでも、赤カブの甘酢漬けで代用した。

一品料理として季節の野菜の和え物、野菜の揚げびたし、白インゲンの煮豆、そして、デザートは季節の果物。カルタゴの野で積んだ春菊までも和え物の中に入れられた。皆さんに喜ばれるならと、思いも熱くなる。

くじ引きの景品に大喜び

§参加される方の楽しみを増やすためにと、実は2回目からくじ引きを加えることにした。日本からのお茶やインスタント味噌汁、お菓子など、送っていただいたものや手持ちの日本の小物を活かした。皆さんにくじ引きのチケットを買っていただき、食事が終わった後で、そのくじを開いて、景品を差し上げる。これは基金作りというよりも、むしろ楽しみを加えるというためであるが、奇特な方は一度に3枚も5枚もチケットを買ってくださる。また、これが大変好評であった。そのために次々に景品を用意しなくてはならない。スカーフ、Tシャツ、本、グラス、皿、バッグ、帽子、靴下、風呂敷、ハッピ、アクセサリー、カレンダー、手芸品、石鹸、卵、ワイン、マフラー、ノート、ビール、トイレットペーパー、米、タオル、オリーブオイル、ウエストポシェット、自家製アジやカマスの開き、ワインサーバー、ニンニクの皮むき器などなど…….週末の買い物に大きな仕事が増えた。このために手芸品をたくさん寄付してくださる方や日本から景品になるものをお持ちくださる方も現れ、本当に嬉しく、ありがたい。 

§アメリカ大使館やスイス大使館の“寿司ラバー”による貸切まですることもあった。時には、お寿司の歴史などを交えた寿司談話を提供することもある。日本の食文化の1ページの紹介である。出席してくれる方々は、サロンらマルで始めて出会うので、日本式の自己紹介も加えて交流を計る。これがまた好評で皆が喜こんでくれた。電話番号の交換や、意気投合した人々の再会の約束など、新しい人と人との出会いの場にもなっているからである。

§また、10回目を記念して何か特別なものでもと思っているところに、日本からの友人の来訪が重なり、急きょウナギの蒲焼を持参していただき、さらにはスタッフに加わってもらった。喜こんで食べてくれるいろいろな国の人びとの笑顔を思うと、何でもしてあげたいと言う気持ちになる。

在任も残る3ヶ月

§おっかなびっくりで始めたチャリティー基金作りも、皆さんのお陰で大成功。次は何時ですか、毎週やって欲しい、毎回案内状を下さいとか、何人の友人に声を掛けていいか、などと電話がかかったり、メールが飛び交う、ひいてはすし屋を開業してくれと、嬉しい悲鳴をあげている。過去12回にわたるイベントで、延べ人数326名(日本人138名、非日本人188名)参加国籍数25カ国と、正に国際交流として日本のお寿司が果たした役割は大変大きい。

§残る3ヶ月の滞在期間であるが、できる限り継続して行きたい。基金を有効に役立てるためにも、現在色々な施設を探訪し、どんなものが必要かを聞いている。まだ、チュニジアの労働者一人の平均年収に満たない小さな基金だが、大勢の方々に支えられ、汗水流してでき上がったものである。ことのほか大切に役立てたいと、この国の将来を担う子供たちのためにと思っている。自閉症と発達障害の子供たちの私的な施設には、手作業をするために必要なものを中心に大きなリストをもらい、それらの買い物にも走り回っている。また、チュニジアのNGOの人とも接することができ、いろいろな情報をいただいている。家庭内のトラブルで犠牲になった情緒不安定な子供たちの施設、親の無い子供たちの施設、と現実をしっかり見て、行動を起こしたい。今年は任期が終わって12月上旬に帰国するが、帰国後も、お世話になったこの国に日本からできることで支援を続けていきたいと、新しい夢も心の中に生まれてきた。

お礼、お礼、お礼

§最後にこのチュニジアでの小さなチャリティー活動を支えてくださっている数多くの参加者、惜しみないお手伝いをして下さる方々、色々な品々をお届けくださる方々、寄付金を下さる方々、この活動を支援し、準備の手伝いをしてくれている夫、そして、この国に住む機会を与えて下さったJICAの皆様に心からの御礼を申し上げたい。そして、この小さな活動を紹介させていただいたことにより、新たな活動を考えるヒントになることがほんの少しでもあれば、こんなに嬉しいことはありません。

Reiko Nakamura 中村禮子


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