真名真魚字典

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和名・一次名称・俗称別引用文献・参考文献引用文中の古書名注編者凡例

 

(3)その他の部 Sorry Under Construction

9画

|[海](→10画)|[柔]|[秋]||||

 

 

 

柔魚  ika・イカ ・いか

 

○邦名 イカ。

○【大和本草(宝永6年版・中村学園蔵書本)】柔魚、[門⊂虫]書(ビンショ)ニ曰ク、烏賊(トソク)ニ似テ長ク、色ハ紫、[消(肖→章)]人ハ、之ヲ晒シ干シ(天日に干し)食ス。其ノ味ハ甘美トイヘリ。是スルメナリ。骨ウスシ。乾タルヲ多ク食ヘハ消化シカタシ。凡ソ烏賊ノ性本草ニ、気ヲ益シ志ヲ強クストイヘリ。柔魚ノ性モマタ然リ(最然)。河豚、鰹魚ナト一切ノ魚毒ニアタリタルニ、スルメノ手(ヲ)煎ジ服スヘシ。―以下略。……この全文は、「烏賊」(イカ)の項に、「烏賊魚」として載せた。

○参考:[烏賊](その他10画)。

 

 

秋刀魚  sanma・サンマ・さんま[祭](11画)|[箴](15画)

 

○邦名 サンマ。サイラ。

○『水産俗字集』(農商務省農務局編纂課編。明治20・1887年刊。大日本水産会発行。) サンマ:[箴](名物類篇)。銅哾魚(日東魚譜)。……MANA【注】「名物類篇」(松易遷編。嘉永元・1848年序。国会図書館蔵本)に載り、同内容記述の「掌中名物筌」(福井春水編。天保4・1833年刊。国会図書館蔵本。)にも「サンマ:鍼魚一種」を載せる。

○『水産名彙』(田中芳男編纂・藤野富之助補輯。明治34年・1901年冒頭緒言記載。) サンマ:秋刀魚:[箴](名物類篇)、銅哾魚(日東魚譜)、青串魚(漁産一斑)、[祭](静岡県水産誌)、西刀魚(台湾総督府民政局殖産報文)、[箴]魚・鰊・秋光魚・三摩(日本有用水産誌)

○『水産宝典』(1916:大正5年初版。大日本水産会編):「水産名彙」:651:さんま(魚);秋刀魚;鰊;秋光魚;三摩;[箴];銅哾魚;青串魚;[祭];[箴]魚;西刀魚;ノゾサヨリ;サイリ(摂津、伊勢);バンジョ(佐渡);サイラ、Cololabis saira,Skipper(英);Mackrelen hecht(独);小樽―長崎。

○近世:江戸時代に「サンマ」あるいは類似表記を載せる文献は、本項目の最後に整理して載せた。

○『日本産物誌』(原題「日本地誌略物産弁」明治8年の明治13年再刊本。床井弘他編)(生活の古典双書21、昭和54年):安房国物産:附録:石花菜(朝夷・安房二郡)鯖(安房郡布良)青串魚サンマ(同上)…以下略

九州大学デジタル・アーカイブ:『大日本物産図会』
第2巻「同国秋刀魚網之図」(同LBの許可を得て画像を載せています。)

左画像:左上解説記事 拡大

○『大日本物産図会』(「九州大学デジタル・アーカイブ」のうち「鉱山 ・ 産業・ 技術史料」に第19に公開掲載されています。):同ページ解説:「明治10年(1877年)8月に開かれた第1回「内国勧業博覧会」にちなんで販売されたと考えられています。出版したのは日本橋1丁目の錦問屋大倉孫兵衛、画工は安藤徳兵衛(三代広重と呼ばれる)で、蒸気車や西洋館など明治初期の風物を精力的に描いた絵師でした。各地の産業・特産物を描いた『大日本物産図会』に含まれる錦絵の総数は、120図といわれますが(樋口弘『幕末明治開花期の錦絵版画』味燈書屋、1933年)、完全に揃っているコレクションはいまだ不明です。ここでは、オランダのライデン大学図書館の許可を得て、同所が所蔵する折本形式の3冊本『大日本物産図会』を掲載しています。」

○同第2巻「同国秋刀魚網之図」:画中記事:「同國[]網之圖」「[](サンマ)ハ安房郡(アハ コホリ)布節村(ヌノフシムラ)朝夷(アサヒナ)郡千倉(チクラ)平舘(ヒラタテ)の浦々(ウラ\/)にて漁す。季秋の頃より[登](サンマ)群集なすを見て、百間余の網を東西へひき、[登](サンマ)網中江入を見て、岩(オモリ)を船へ引あげ、諸船(ショセン)へ魚を採りいれ、塩(シホ)にして東京に出す。大漁のときハ一網十万より廿万尾(ヒキ)に至る。/同国[登]網之圖」……本記事中の[登]網は、彫り職人が、[祭]網を読み間違 えたか、原稿執筆者が、そのように書いていたのかもしれない。後に事例をあげる『古文書と魚名の漢字』(藤木喜久磨著)の上総地区における近世漁業文書の[祭]の表記例を参照されたい。なお、アーカイブのページに載るタイトル「同国秋刀魚網之図」の「秋刀魚」は 、同アーカイブ編者によりサイト掲載時に付けたタイトル とのこと。ただ、明治10年ごろ(あるいは明治前記:10年代)に「サンマ」漁業に関して漢字表記を記した貴重な記録である事に変わりはない。

○『水産彙考』(1881、明治14年。織田完之著):凡例:一、和名ノミニテ漢字ノ当ルモノヲ見ザル「サンマ三摩)」「バカ(馬珂)貝」ノ類ハ、音ヲ仮リテ之ヲ通スルノミ。「サンマ」ヲ、シマサヨリト称シ、[](シン)ノ字ヲ用ウルハ謬レリ。[箴]ハ針嘴魚(シンシギョ)ニテ長嘴也。三摩秋刀魚シュウトウギョ)ト云ルハ拠處(キョショ)ナシ。(サイ)ヲ三摩ニ当ルモ非ナリ。ハコノシロナリ。バカ貝ヲ沙虱(サシツ)ト云フモ亦信認シ難シ。本邦ニアリテ漢土ニナキ者モ多カルベケレバ、強テ牽合ヲ須ヰズ。別ニ水産名彙ノ一書ヲ収録セリ。将ニ追刻シテ遺欠(イケツ)ヲ補ハントス。…以下略。……「拠處ナシ」と記されていることとは関係なく、現在までに確認した限りでの「秋刀魚」表記の初出記事である。織田完之が造字したことではないことは、この「拠處ナシ」によりわかり、すでに、小田が執筆時以前に、いずれかの文書で記されていることを見てのことであろうことが推定される。

 (割調篇)(第十五丁裏)…前略…又関東ハ水戸ノ乾翻車(ホシウキキ)魚、甘漬ノ[生]ヲ始メトシテ,九十九里ノ乾鰛(ホシカ)、上総、安房ノ鯵、梭魚(カマス)、三摩{和名}ノ乾脯及び乾鰒、乾海参、相模及ヒ伊豆七島ノ魚弁ニ貝ノ乾脯、叔鮪(マグロ)、[鉛(金→魚)][魚+垂]魚〔カツオ〕、鯖、鯵等ノ醢魚(シオモノ)モ亦夥シ。…以下略。

 (雑産篇)(十六丁裏〜)魚類ノ脂油ヲ取リテ日用ニ供スベキ者海鰌(クジラ)ノ油ヲ第一トス。…中略…其油滓モ亦貧家ノ食物ト為スベク田圃ノ肥養ト為スベシ。諸魚ノ中ニ於テ最モ優レタル者ナリ。其次ハ海豚(イルカ)及ビ金鎗魚(シビ)、青花魚〔サバ〕、鱒、青魚(ニシン)、河豚(フグ)、三摩{和名}皆油ヲ搾ルベシ。然レドモ油ノ品ハ大ニ海鰌ニ劣レリ。右諸魚ノ油滓ハ肥料ニ良シト雖モ食物ト為シ難シ。油滓ノ食フベキ者ハ海鰌ヲ除クノ外、唯是レ三摩ト海鰛ノミ。凡ソ魚油ノ最モ多ク捕ルベキハ海鰛(イワシ)ヨリ大ナルハナシ。…以下略。

○『言海』(大槻文彦編著。明治22・1889年初版。序記:明治8年起草し成稿明治17・1884年。「ちくま学芸文庫」2004年版使用。):さんま(名):小隼三馬。魚ノ名。形、さよりニ似テ、色蒼黒ナリ、秋冬ノ際ニ、安房上総ノ海ニ多シ。多クハ、淡(ウス)ク塩ニ漬テ、四方ニ送ル、賤民ノ食トス。上方ニ、サヨリ。秋光魚……ここに載る「小隼」は「さんま」の漢字表記をさしているのだが他の用例を知らず不詳とその義をペンディングしてきた 。【書言字考節用集】(享保2年版:増補合類大節用集)「左(サ)」項に、「鳩(サシバ)、小隼(同)、弋鷹(同){差隼。刺羽。並ニ仝}」と載る。同書には「[箴](サヨリ){略}、銅哾魚(同){略}、針魚(同){又作細魚。並俗字}、雑喉―魚(同)」をのせ「サンマ」のヨミを載せる 字句・見出し語はない。また、【合類節用集】(延宝八年・1680年本:国会図書館亀田文庫蔵)五巻龍魚部「サ」には、[箴]魚(サヨリ/シン){異名姜公魚[多識]}、銅哾魚(同)、[卒](サシビ/シツ)、雑魚(ザコ/ザフゴ)を載せる のみ。

『水産小学』(1882、明治15年。関沢明清・織田完之校閲。河原田盛美著。)(上巻:五丁裏、赤線内「三摩(さんま)」)

○『水産小学』(1882、明治15年。関沢明清・織田完之校閲。河原田盛美著。)(上巻:八丁裏)○魚類には海魚あり、河魚あり、海魚の中にて昔しより、賞味するは、鯛にして、鯛には、…中略…その他海魚の多き、参千餘種、各一魚数多の形状模色ありて、数種に分てり、故に悉く種類を分たず、其名目の大概は、鮪(し――)・鮫(さ――)・馬鮫(さ――)・…中略…鰤(ぶ――)〔海[連]魚・海[連]児〕・三摩(さ――)〔青串魚〕・竹筴魚(あ――)〔鯵〕…中略…いしめばる・赤魚・あやびき・等あり。(右画像:クリックすると大きな画像が見られます。)

○『水産実業録』(1895、明治28年。室伏治郎兵衛)(60〜62p:適宜MANAにより改行、新字体に直した。) 秋刀魚ノ説:○秋刀魚ハ{[]或ハ細魚トモ書ス}京坂ニテハさいら、勢尾ニテハさよりト云フ。房州ハ其盛漁地ニシテ之レニ亜クハ伊豆志摩及紀州等ナリ。紀州ハ秋刀魚ノ早漁場ナリシガ近来ハ房州ヲ早シトス。早キモノヲ走リト唱テ都鄙之レヲ賞味ス。漁期ハ晩秋ヨリ十二月迄トス。秋刀魚ハ始メ肥大ニシテ美味ナリ。終期ニ至テハ形小ク脂脱シテ味劣レリ。早漁肥大ノモノヲ元羽ト云ヒ、細小ナルヲびりト云フ。房州ニテ盛漁ノ時ハ網一統一日ノ捕獲拾万尾或ハ弐拾万尾ト称ス。其盛漁想フベシ。塩秋刀魚ハ、捕魚ノ儘塩漬トナシ、乾秋刀魚ハ背開キニシテ塩ニ漬ケ乾シタルナリ。

   塩秋刀魚ハ壱万尾ニ付新才田塩参俵{此舛量五斗四舛}ヲ用ス。荷籠ニ員数五百尾ヲ入レ、別ニ半切桶ヘ魚ヲ参拾尾入レ塩凡三合ヲ振掛ケ、桶ヲ以テ一転シ拾回樽ニ入レ、一樽三百尾トシ{小羽ニナレバ五百尾八百尾入ルモアリ}塩明俵ヲ上置トシテ船積ス。

   乾秋刀魚トナスハ、魚ノ背ヨリ開キテ淡水ニ浸シ、三度水ヲ換テ晒シテ後チ水分ヲ除キ、魚肉面ノ塩ノ上ニソト置キ塩ヲ付テ五尾ヲ重ネテ樽ニ漬ケ込、圧石モナサス翌日ニ至リ清水ニテ洗濯シ葮簀ニ排列シ、一日乾ニス然レドモ貯蔵ヲナスハ二日乾シテ三日目ハ散シ乾シニナシテ、俵入トス。伊豆房州辺リテハ簀子入又ハ籠入リトス。紀州志摩辺リハ五拾尾ヲ藁ニテ束ネ、房州辺リノ俵入ハ三百枚ヲ普通トス。元羽ニテ目方ハ五貫目乃至六貫目位ナリ。伊豆製ハ鰓ヲ除キ製造善良ナレドモ産額ハ安房ニ及バザルナリ{価格…以下略}。

   北海道ニテハ此魚ノアルヲ聞カザレドモ佐渡ニテハ方言ばんじょうト称シ、四五月ノ候漁ス。阿波土佐ニテモ多少ノ漁獲アリト云フ。需要地ハ関東、東山、畿内、関西等トス。濃江州等ノ人民年取リ肴ニ必ズ秋刀魚ヲ用フト云フナリ。

○夏目漱石(1)「吾輩は猫である」。明治38・1905年序記。(岩波書店版『漱石全集』第1巻。1965、昭和40年発行):(冒頭)吾輩は猫である。名前はまだ無い。…中略…然しひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出來ん。吾輩は再びおさんの隙(すき)を見て臺所へ這ひ上(あが)つた。すると間もなく又投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶して居る。其時におさんと云ふ者はつくづくいやになつた。此間おさんの三馬さんま)を偸(ぬす)んで此返報をしてやつてから、やつと胸の痞(つかへ)が下()りた。

○夏目漱石(2)「私の個人主義――大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述――」 私が落語家はなしかから聞いた話の中にこんな諷刺的ふうしてきのがあります。――むかしあるお大名が二人ふたり目黒辺へ鷹狩たかがりに行って、所々方々をまわった末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来ともはなばなれになって口腹をたすかてを受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにあるきたない百姓家ひゃくしょうやへ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家のじいさんとばあさんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚さんまあぶって二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚さかなに非常にうまく飯を済まして、そこを立出たちいでたが、翌日になっても昨日の秋刀魚かおりがぷんぷん鼻をくといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご馳走ちそうをする事になりました。そのむねうけたまわって驚ろいたのは家来です。しかし主命ですから反抗はんこうする訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜けぬきで一本一本かして、それを味淋みりんか何かにけたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧ばかていねいな料理方で秋刀魚の味を失ったみょうな肴をはしっついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したと云うのが話のおちになっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味にいた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。……(1)では「三馬」、(2)の目黒のサンマ話では「秋刀魚」と書き分けているのは、たんなる文章上の趣向(文字選び)か、あるいは大正に入って「サンマ:秋刀魚」がすっかり定着したことからの使用か。ちなみに、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」は大正12年刊の詩集「我が一九二二年」に載る。

○『日本水産捕採誌』(上巻)(明治44・1911年発行。農商務省水産局編。水産書院版。成立は原稿完成の明治28年。):第十一秋刀魚サンマ」:秋刀魚は東海に於て多く之を漁獲し、関東にては専ら「サンマ」と称し、関西にては「サイレ」又は「サイラ」或は「カド」とも称す。安房国、志摩国、紀伊国を以て殊に盛漁の地とす。其漁法皆網を用い、未だ釣漁するものあるを聞かず。網も亦時に此漁の為めに製作せる旋網にして、他の曳網敷網等を用ふるものなし。故に、其漁法漁具各地小異あるも大差なし。今其一二を掲ぐ。

   安房国に於ける秋刀魚漁は、東海岸の七浦及び千倉浦チクラに専なり。七浦とは、安房郡白浜、乙浜、白間津、大川、千田、平舘、川口、瀬戸等を指し、千倉とは朝夷町近傍を云う。漁業季節は陰暦九月中旬より十一月の末までにして季節に至れば近海各地より廻船入漁するもの甚だ多く頗る盛況を呈す。

   網の構造は、親網、手網の二者より成る。之を連続すれば長さ大略百八九十間となる。其親網は形状殆ど扇面の如く、丈けは中央二十間位、左右端は十七間三尺位、長さは上方二十一間位、下方十三間二尺位にして、尚其局部を細別すれば図中の(イ)を魚捕とし、(ロ)を潮吹、…中略…之を使用する漁船は、八手網船を兼用す。即ち真網船、逆網船、口船の三艘にして、左右網船には漁夫凡十二三人、口船には十人位乗組むものとす。

   漁法は季節中、天気平穏の日なれば、大抵午前七時頃より出船し、陸を距ること二三十町より遠くは五六里の沖合まで帆を張りて進行し、魚群を認むれば直ちに帆を下し、漁夫は沖合の令に従い左右網船を接近し、舳を並べ、綱にて繋ぎ合す。之を舫(もあい)と云う。而して…中略…網は殆ど敷網の如き状をなし、魚群之に上る。然して竟に繰詰め、魚を親網の魚捕りに集め捕獲するなり。又、魚の網に入ること多きときは、網船に在る二三の漁夫は水中に入り、網口に在りて游泳し魚の遁逃を防ぐことあり。而して尚お他に魚群あるを認むれば前法の如くして漁獲すること数回に及び、捕魚三船に満つるを大漁と称す。(図略)

   第十二サイラ網」:紀伊国に於ける「サイラ」漁業は、熊野浦に盛なりとす。漁業は、十一月より一月の交にして、東国より稍や後る、或は二月の末に至り群来することあるも、肉痩せ殊に味美たらずと云う。

   網の構造は図に示すものは、北牟婁郡尾鷲南浦に使用するものにして、全長上方にて七十五間、下方五十間、丈けは中央二十間,左右端の二行は十節網を用う。沈子は重量五十匁の石を用い、両端に一貫匁のものを附く。

   漁法は、大抵前者安房のものに同じと雖も、船は大小五艘を用う。其二艘は大にして鰹船を兼用し、三艘は「サッパ」船又手船と称うる小船を用う。大船には漁夫十三人乃至十五人乗りにて網を分載し、小船には七八人乗組む。而して魚を駆逐するに鵜竿と称し、前者安房地方にて用うる狩竹と同じきものを使用するの外、尚お「ヲタ棒」と称し、丸木の末に縄を附けたるものを取りて海中に投入れ恐嚇することあり。是其前者と異なるところなり。(図略)

○『実用魚介方言図説』(1941、昭和16年。田中茂穂):サンマ(秋刀魚):@通名=サンマ、A方言=サンマ(東京、東北地方、高知、石川県輪島、福井県鷹巣)サイラ・サイレ(和歌山県各地)サヨリ(和歌山、愛知県三谷、岐阜県大垣、石川県大聖寺)サエラ(兵庫県淡路国、同播磨国)サヨラ(京都府宮津)、B分布=日本全般、C形態=頗る細長く、著しく扁べったい。体長は30センチメエトル(一尺)。C備考=十月から十一月末までが美味で、その前の幼魚時代やその後の産卵前後のものは不味であるが、重宝な惣菜品である。東京やその付近では美味のものとして重宝がつている。

○『食用魚の味と栄養』(1943、昭和18年。田中茂穂):二百二十八(サンマ):周年ある。東京ではエベスコサンマと云い、旧暦十月二十日の蛭子講に之を備えるが、すでに新暦十月には熟卵を持っている。旧暦十月二十日まで美味である。房洲、伊豆、三崎から東京へ入荷したものである。水戸から来るのがもっとも美味で、したがって相当に高価である。三崎から来る時期になると、著しく不味である。新暦十月二十日ごろ初サンマが入荷したものである。従来は皆塩物であったが、近頃は鮮魚で東京市場へ入荷する。四月乃至七月頃ある事もあるが稀で、九月には殆どまったくなかったものである。乾サンマは十一月から現れる。塩焼とする。之れの臓物が美味である。近年のことであるが、サンマの漁業者は近頃までに夏に北海道襟裳岬へでかけ、サンマの南下とともに漁業も南下したのであったが、それでは幼魚の不味なときに過漁に陥って、茨城県へ来た美味のものが著しく漁獲量が減じたため、現在では九月二十日解禁し、その前は禁猟期となっている。/サンマ Cololabis saira。

『古文書と魚名の漢字』(藤木喜久磨著。『日本水産史』日本常民文化研究所編。昭和32年、1957年、所収。):前略……(310〜311p)しかしこの分類はこの原稿を書くために急場に作った思い付きで、甚だ不完全なものでもあり、まだまだ今後も新しい資料も出て来ることであろうから、いずれまた再考する必要があろう。まず、第一の同字異魚の例について最初このことに気付いたのは、千葉 県夷隅郡勝浦町、勝浦東小学校所蔵の同町字部原の奮名主江澤家の「日記」であつた。この日記は文化二年(一八○五)から明治二十一年(一八八八)頃まで、数代に亙つて書き継がれたもので、その間に多少の散逸した部分もあるがほぼ揃っている。小生はそのうちで文化二年から同九年(一八一二)までの数年分だけを筆写したのであるが、この江澤家が網元もしていた開係から、日記には魚漁のことについてはなかなか委しく書いていて、時には他家、他村の水揚高までも記していることもある位である。これらの水揚された魚種を、記された度数の順に奉げると、鰯・鰶・鰹・サンマ・鯵・夕ナゴ・鱸・ムロアジ・サバ・石モチ・マグロ・鰍その他で、この地方としてイワシ漁の多いのは当然のことであるが、不思議に感したのはこれも昔から有名なサンマ漁が思いのほかに少ないことで、ある年には二、三回、年によつては一回も記されていないこともあつた。もしこの年代がサンマの回游の無かつた年廻りに当つていたとしても、この日記には「鰯氣あり網を下すも不取」などと、漁が無ければ無いでそのことが記されているところから見ても、サンマの不漁について何か一言くらいは記事があつても良さそうに思うが、一向にそういう記事も見当らない。これはおかしいなと思いながら筆写していたところ、文化八年(一八一一)頃のある日の記事に、近村の網元某が○○〔ルビ点〕)を買つてくれと交渉に来たということがあつて、その翌日のところに同人がサンマ網○○○○〔ルビ点〕)を持つて来ると書いてあつた――今、この記事の載っている日記の写しが見当らず正確な年月と記事を引用することが出来ず大意を記す――ここで初めてこの地方では、鰶の字をサンマに宛てて使っているのではないかと思い当つたが、一般にはコノシ口として通用している文字を、サンマと読んでいたとは直ぐさま断定も出来ずに、多少の疑問を持つていたのであつたが、その後、明治二十七年(一八九四)刊行の静岡県漁業組合取締所編「静岡縣水産誌」に、)の字にサンマと振仮名がしてあり、また明治二十八年(一八九五)刊の室伏定秀著「水産實業録」には「さいら、秋刀魚ハ)或ハ細魚トモ書ス京坂ニテハさいら勢尾ニテハさよりト云フ」とあるのを見付け、漸くこの文字をサンマに宛てて使っていた地方もあつたということを知った。そしてこの「水産實業録」の解説で気付いたのは、京阪地方の方言サイラのサイからこの宛字か造字が出たのではないかということであるが、まだこの地方の文書 からは確証となるものは出ていない。

○『日本たべもの歳時記』(水原秋櫻子他監修。1998年、講談社+α文庫)(秋)秋刀魚(さんま)晩秋:さいら。秋刀魚網:「江戸時代には季語とされていない。それほど尊重されなかったらしい。」(山本健吉)(304p)本書は、講談社版『日本大歳時記』よりの記事を再編集したもの。……俳句の大家が、「江戸時代には季語とされていない」と 断定して書いている点に注目すべきである。

 

江戸時代文書に表記された「サンマ」

 

○『本朝食鑑』(人見必大。元禄8・1695年。平凡社東洋文庫296『本朝食鑑 1〜5』島田勇雄訳注。)(第4冊)(鱗部之2、118p)細魚{佐与利と訓む。}〔釈名〕針魚。源順(『和名抄』)は波里乎(ハリヲ)と訓んでいる。与呂登(よろと)。訓は上に同じ。与理登(よりと)同上。与治魚。同上。いずれも『延喜式』にみえている。/〔集解〕…中略…京都・江都および各地の江海に多くいて、その類は一つである。惟、沖細魚(おきさより)というものがある。春の末・夏の初めに獲れる。形は略同じく、味が最も劣っている。脯(ほしうお)として、三摩さんま)というが、その義(いみ)についてはなお詳らかでない。細魚(さより)の最もおおきいものを漁家では多津といっている。〔下線原文:細魚…中略…惟有沖細魚(おきさより)者、春末夏初采之、形略相同而味最減作脯曰三摩、義未詳。〕

○『梅翁随筆』巻之二「今はむかしのこと」(著者不詳。安永頃:1772年〜成立。)(『日本随筆大成』第2期第11巻-34p、吉川弘文館、1974年。:旧版第6巻に載る。) 一 目前に見聞したる事も、十年過二十年三十年を経て、世上どもにうつりゆく事すくなからず。また今の時をもむかしとて忍ぶる事あるべきなり。

  …中略…

  一 あま塩のさんまといふ魚、明和の頃迄は沢山にはうらず。喰ふものも多からず。しかるに安永改元のころ、安くて長きはさんまなりと壁書せしが、其頃より大に流行出して、下々の者好みてくらふ事と成たり。寛政にいたりて、中人以上にも好人有ごとく成たり。此ころまた下賤の食物として、御籏もとの家にてくわぬ人多し。是も後々は屋敷向へも出べし。

  ……MANA〔注〕明和(1764〜1772年)。安永改元(1772年)。寛政(1789〜)。 なお、原文(写本)未見だが、『日本随筆索引』(太田為三郎編、岩波書店「増補」版。初版は明治34年、東京・東陽堂本)では、サの項に、初版は該当字と「梅翁随筆」引用 記載なく、「増補版」で、「秋光魚(サンマ)」を挿入し、「梅翁随筆」を記載している。但し、「梅翁随筆」原文(稿本・写本・刷本)に、その漢字が使われているかどうかは 未確認。『続日本随筆索引』にも、同じ項目立てをしているため、編者による「サンマ」項目に「秋光魚」と表記していると思われる。

○『誹風柳多留』他江戸期川柳(『誹風柳多留』一〜二十四篇までは岩波文庫版『誹風柳多留』山沢秀雄校訂4冊本を使用 。その他は、渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』、三省堂『誹風柳多留全集』岡田甫篇等から引用確認した。)年代初期順からならべた。

        仰向いて舂屋さんまをふつり食い  (1)

:明和八・1771年。「川柳評万句合勝句刷」相印「信」3丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用 。また、見出し語解説に、『続飛鳥川』の説明等につづけて、「さんまの柳句には、舂米屋〔つきごめや・つきよねや〕がさんまを食べる句があり、肉体労働者などが好んで食料にしたと思われる。」とあり、舂屋・舂米屋にかんする川柳を11句選び載せている。……「相印」とは何か。松竹梅や乾坤、イロハ順、アイウ順など項目別けに用いた配列名のことか。引用書凡例に載るが俳句川柳用語か、手持ち辞書やネット検索で調べた限りでは不詳。要検討。

        さんまをば恥しそうに舂屋食い  (2)

:安永元・1772年。「川柳評万句合勝句刷」相印「仁」5丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用。

        舂屋さんさあ焼物と下女笑い  (3)

:安永元・1772年。「川柳評万句合勝句刷」相印「智」2丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用 。編注記に「焼物といえば高級料理、さんまの焼いたものをそれにたとえる」とある。「焼物」をサンマに譬える表現については(8)参照。

        しっかりと盛ってさんまを弐枚つけ  (4)

:安永ニ・1773年。「川柳評万句合勝句刷」相印「梅」3丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用 。編注記に「飯を山盛りにして、舂米屋のおかずとする」とある。     

WLDB(「柳多留」

(7)18-31/44 (6)17-37/43

        ついて居る前でさんまを三声呼び  (5)

 :安永八・1779年。「川柳評万句合勝句刷」相印「礼」10丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま 売り」項より引用。編注記に「舂米屋」とある。

        さんまの干物食ひさして鳥おひ   (6)

                   :第三冊:第十七編(天明二・1782年)37丁(WLDB画像参照)

        追いたきの下たへさんまをつっくべる  (7)

:第三冊:第十八編(天明三・1783年)30丁(WLDB画像参照)

:渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』「さんま 売り」項では、編者注記に「飯の不足に炊き足す」とある。……「の下へ」「つっくべる」の2語とのかかわりで意味を取ると、飯が不足し炊き足すぐらいに食がすすむ、ということだけではなく、「炊く」と「焚く」とを想起して、干物サンマ、それも棒のようなすがたのサンマを、直火に「つっくべた」というようなイメージが浮ぶが、どうだろう。干物の丸干しサンマは、脂がのらない小型サンマや、オチサンマを使うことが現代の加工の姿だが、それを髣髴とさせる。生サンマは、鮮度オチが激しく、江戸期、房総で採れたといっても、輸送に時間がかかるので、塩にして塩蔵サンマで販売されたとおもわれるが、どの程度の塩蔵か、生に近い塩蔵か、ヒモノ化した塩蔵か、そういう想定が必要な気がする。七輪で生サンマをその場で塩を振って焼く、そういう現代人の常識を当てはめることは、ちょっと待てよ、とペンディングしておきたい。

        九寸五分むしやりむしやりと舂屋食い  (8)

:天明三・1783年 。「川柳評万句合勝句刷」「追善」。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用 。編者注記に「長いさんまを頭から」とある。……本句と次句は、「甘塩」が「サンマ」を意味すること、九寸五分は約30センチであり、サンマの標準サイズとして「サンマ」を表現すること、この比喩表現をつかって記して、読む人の理解を前提にするほどに、サンマ、それも甘塩のサンマは普及していたこととして推量できる。また、「むしゃりむしゃり」という表現と、前々句の「干物」をも想定して、このように食べ方のできるサンマは「干物」(一本物。開きがあったかどうかまでは読めない。)であったろう。

        舂屋むしやむしや甘塩の九寸五分   (9)

:天明五・1785年 。「川柳評万句合勝句刷」相印「智」5丁。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』東京堂出版発行「さんま売り」項より引用。

        初さんま舂屋半てんぶち殺し  (10)

                    :第八十九編24丁(文政九・1826年。渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』「さんま売り」項より引用)

 :注記に「半てんを質入れして、さんまを買う」とある。

        駒止めて直ばかり聞いた初さんま  (11)

                    :第九十編12丁(渡辺信一郎著編『江戸の生業事典』「さんま売り」項より引用)

        まて火箸渡してさんま焼て喰ひ   (12)

                    :第百五十五編(天保九〜十二・1838〜1841年。角川古語大辞典第二巻「さんま」項より引用)

        さんま焼ききせる通しの離魂病   (13)

                    :第百六十六編29丁(天保九〜十二・1838〜1841年。三省堂『誹風柳多留全集』岡田甫篇、「索引篇」より)

WLDB

『浮世床』初の上

○『浮世床』(式亭三馬著。滑稽本。文化8序-文政6[1811-1823]、柏栄堂、江戸刊本)(WLDB:9冊のうち第2冊。初編の上):江戸近在でも魚類は不自由だよ。爰から三里踏出して見なさい。場所によって生魚は見ることもならず。鯵(サンマ)の増塩をしたやつの辛くて一口もいけねへのを、大根入れて煮て食ふはさ。…以下略……「鯵」は「サン」のヨミを「サンマ」に充てた用法だろう。ルビをふって示してあり、「アジ」との混乱はおきない。旁「祭」も同じ用法。「登」の「祭」の誤記とばかり断定せずとも、「刀」(トウ)とのかかわりもチラリと頭に入れておいてよいかもしれましれない。

○『魚鑑』(上下二巻。武井周作著。天保2年、1831年。)(さの部)(下ノ二十八表):さんま:漢名(からな)しれず。秋冬(あきふゆ)の交(あいだ)、安房総(あわかつさ)海多し。淡塩(うすしお)して鬻く。又鮮(なま)なるもの、炙食(やきしょく)するによし。上饌(おあかり)に充らず。病者(びゃうにん)によからず。京都にてハさよりと称(とな)ふ。

<年代不詳>

○『続飛鳥川』(筆者成立不詳:『新燕石十種』第1巻。中央公論社、1980年刊に含む。)……新しい記述は天保二年あり。「寛延、宝暦の頃、文化の頃までの売物」のほか「追加」記述に売物に限らず記述されている。

:追加:安永の頃、…中略…/塩魚にて、さんまは下魚にて、食する者なし、下々にては食す、寛政の頃より追々食料になり、客にも遣ふ様になり、価も高くなる、:寛政の頃(1789〜1801)

○『真佐喜のかつら』(青葱堂冬圃著。嘉永末年(1854)頃成立。:『未完随筆百種』三田村鳶魚編、中央公論社刊。第8巻所収)ニ:嘉永六丑年五月頃、房州海辺にて、さんまといふ魚多くとれけるを、冬のごとく塩にして江府へ送る。めづらしき事におもひ、予も食しみるに、旬(しゅん)ならぬ故か、味ひよろしからず。同じ頃常陸国にて鮭の魚を得たるよし。このうを早くは夏土用を過ぎたるに江府にて見る事あり。今二魚とも時ならず漁る事、気候のくるひし事にや。

『栗氏魚譜』(10冊)(国会図書館貴重書画像:伊藤文庫:寄別11-31:巻11-7/24)

KLKDB「梅園魚品図正」巻1:12/56

○『栗氏魚譜』(10冊)(国会図書館貴重書画像:伊藤文庫:寄別11-31:巻11-7/24):サンマ/冬月至春多シ。セヒレナク身長ク肉肥テ脂多シ。味海鰛ニ佀タリ。薄キ塩ニ着テ、アマシホト呼テ賎者ノ食トス。〔赤字〕マル栗。十一ノ四。……書誌:栗氏魚譜(10冊)巻11:著者名:栗本丹州:写:伊藤文庫:寄別11-31。栗本丹洲(宝暦6〜天保5年、1756〜1834年。)。『栗氏魚譜』は、荒俣宏『 世界大博物図鑑』(2魚類)によれば文政2年(1819)成立。

○『梅園魚品図正』(国会図書館貴重書画像:寄別4-2-2-2:巻1:12/56)海魚類/サンマ/此者房州常州ヨリ多塩ニシテ遠ニ送ル、生ナルハ味不美而遠ニ送ル事少シ、故ニ見ル人稀也、生ナル者今年漸ク得之、総テ塩ニ和シテ味美ナル者ハ生魚ニシテ味不宜、鱒(マス)[生](サケ)最同シ。/癸己七月廿九日/真冩……癸己(みずのと・つちのと):天保4年・1833年。書誌:写生斎魚品図正、梅園魚譜、梅園魚正、魚品図正:著者名:毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯:写:出版年:天保6(1835)序:注記:手稿本 。

 

○参考リンク@:独立行政法人水産総合研究センター中央水産研究所:http://nrifs.fra.affrc.go.jp/

 @中央水研図書資料館「展示情報室」生物データ「サンマ」
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/exhi_info/sf44.html

 A秋刀魚の話(サンマの生態、漁業)
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/arekore/saira/saira00.html

 Bサンマの料理
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/kakou/mame/sanma_1/

 Cサンマの栄養成分
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/kakou/mame/sanma_2/

 Dサンマのみりん干し
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/kakou/souran/mirinboshi/index.htm

○参考リンクA:中目黒落語会:http://homepage3.nifty.com/n-yose/
目黒のさんまが生まれた日(落語初演は「誰が」「いつ」を考証した読み応えのある記事になっています。)
http://homepage3.nifty.com/n-yose/sanmakinenbi.htm

 

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