MANABOOKニュースレター 追悼 漁協経営2000年2月号 


浜本幸生さんのこと

 

熊本一規 くまもと・かずき(明治学院大学教授)

 

 浜本幸生さんが、199911月4日、逝去された。水産庁に50年に入庁されて以来、ほぼ一貫して漁業法の解釈にあたってこられ、また、大分の風成裁判をはじめ、漁業法の解釈をめぐる多くの裁判でも証人として立たれた元水産庁漁業調整官である。

 「漁業法の神様」と呼ばれ、漁業界や中央・地方の官庁の漁業調整担当者には知らぬ人がいないぐらいの存在であった。退職後もしばしば水産庁から問い合わせを受け、氏の見解がそのまま水産庁の回答になることが続いた。漁業法に関して、最後は、水産庁も裁判所も含め誰もがこの人の判断を仰ぐ、文字通りの「漁業法の神様」だった。

 

 浜本学校通い

  浜本さんを最初に訪ねたのは、20年近く前、ちょうど水産庁がプレハブ作りの建物で仕事をしていた頃である。当時、志布志湾のコンビナート建設反対の住民運動に関わっていた私は、むつ関根浜の裁判を担当していた長谷川純弁護士から「漁民一人一人が共同漁業権を持っているとの主張はできないものか」との相談を受け、本格的に漁業法の勉強をしようと思って訪ねたのであった。

 浜本さんの最初の言葉は、「漁協に補償するなどと書く者には話すことなどない」というものだった。

 訪ねる数日前に発行されたエコノミスト誌に私が「漁協に補償する」旨の記述をしたのを読んでおられ、そう答えられたのだった。軽率な記述を謝り、漁業法の学習への熱意を述べて、ようやく応対を許された。

 それから浜本学校通いが始まった。水産庁8階の遊漁対策室におられる浜本さんを訪ねた回数は、それこそ100回近くに及んだことだろう。

 茶目っ気旺盛で自由奔放な浜本さんは、お世辞にも行儀がいい方ではなかった。管理されるのが嫌いで、「学校嫌い」、「病院嫌い」と言われていた。中学では、教師がよってたかって放校処分にしたそうだから、また水産庁でも、入庁してまもなく、「生意気だ」と言って上司を殴って有名になったそうだから、奔放さも並み大抵ではない。

 訪ねていくと、よく足を机に上げて、思索に耽ったり、本を読んだりされていた。私の訪問に気付くと、ちょっと照れたような表情で足をおもむろに下ろされ、相手をしてくださった。あんな格好が許されていたのも、水産庁で別格(神様)扱いされていたからだろう。

 質問に対する浜本さんの応答は、本人によれば真面目に答えているとのことだが、決して分かりやすくはない。

 漁業権に関しては一般に誤解がまかりとおっており、こちらが誤解を鵜呑みにしていることがそれに拍車をかける。長谷川弁護士がいみじくも「禅問答」と表現したように、何を言わんとしているか、ただちには分からないことが多い。数カ月、場合によっては数年たってから「こういう意味だったのか」と分かることも珍しくない。

 また、決して手取り足取りで教えてくれはしない。むしろ逆に、相撲のぶつかり稽古のように、胸を貸すことによって相手を鍛えようとする。

 Aを主張しようとすると、Aに都合の悪いことを次々に持ち出してくる。

 かといって、Aの主張をあきらめようとすると、今度はAに都合のいいことを次々に持ち出してくる。決してあきらめるな、というサインである。こちらも、何度も訪ねるうちに要領が分かってきて、わざとあきらめる振りをして、都合のいいことを浜本さんから引き出すようにしたものである。

 浜本さんには、いたずらっ子がそのまま大きくなったような味があった。浜本さんと私は、漁業法については真剣に議論したが、それ以外については、意気の合った漫才コンビみたいであった。浜本さんは、にやにやしながらやり取りを楽しまれていた。

 何度か訪ねているうちに、運動を指導するとか反対を強要するとかでなく、漁民・住民がきちんとした判断ができるように正確な法解釈や情報を提供したい、との私の姿勢を理解してくださった。後年、よく「だから貴方を信頼したんだ」と言われていた。

 

免許皆伝の式

 

 一度だけ「これから先は泥沼だから、これ以上はやらんほうがいいよ」と言われたことがある。私の答は「私は泥沼が好きなんですよ」であった。

 この答えは相当気に入られたようでその後、しばしば、あの広いおでこを右手でピシャッと叩きながら、「泥沼が好きな人に泥沼と言うてしもうた」と言われていた。

 何十回とお訪ねし、かなり理解が深まったと感じだした頃、突然浜本さんのほうから質問を受けた。

 「漁業権は、時効によっては取得で きない」という判例に関してであった。それに答えたところ、「うん」といった感じでおもむろに立ち上がり、嬉しそうにロッカーから本を取り出し、数頁をコピーして、それを卒業証書の授与のような格好でうやうやしく渡された。渡し終わって、「これからよろしくお願いします」と頭を下げながら言われた。嬉しくもあったが、それ以上に「ああ、これが免許皆伝なんだな。一応卒業できたんだな」としみじみとした感慨に浸ったものである。

 渡されたコピーは、「埋立免許によっては海面の公共用は廃止されない。漁業権は埋立工事によって海面が陸地になるのに伴い、徐々に消滅していく」という大審院昭和15年2月7日判決だった。それは、一応の免許皆伝であると同時に、新たな課題(公有水面埋立法の解釈)への挑戦を促すものでもあったのだ。そのコピーをその時何故渡されたかを本当に理解できたのは、それから十年余りたって、兵庫県相生港の事件に関し神戸地裁姫路支部に出す意見書を書いたときのことである。

漁業法の哲学

  漁業法は、江戸時代以来の漁業慣行を調べ上げて、海の入会の権利を近代法的に整備した法律である。入会権は入会団体が総有する権利であるが、総有はゲルマン法の概念であり、それを近代法(ローマ法)で規定することは容易でない。しかし、明治漁業法は、漁村部落の漁民をして漁業組合を創らせ、漁業組合に専用漁業権を免許するとともに、各漁民が専用漁業を営むことができるとすることによって、総有をローマ法で規定したのである。

 これが、浜本さんの言う「明治漁業法の哲学」である。昭和24年漁業法もまた、この哲学を引き継いで共同漁業権を海の入会権として規定した。

 ところが、昭和37年の漁業法改正では、改正はむしろ共同漁業権が海の入会権であることを裏付けるような内容であったにもかかわらず、当時の水産庁担当官は、法改正の解説書において「この改正で入会権的性格を払拭した」旨記述した。その部分が、「共同漁業権は漁協の権利である」とする平成元年最高裁判決に引用されてしまったのである。

 浜本さんは、晩年、3年の歳月をかけて、大著『共同漁業権論 平成元年七月十三日最高裁判決批判』(まな出版企画)を著されて、最高裁判決を批判された。本が届いて5日後に亡くなられたことが示すように、文字通り心血を注がれた遺作である。

 『共同漁業権論』で詳細に明らかにされているように、共同漁業権はムラ(漁村部落)に所属している。

 それは、めんめんと受け継がれている「漁業法の哲学」である。浜本さんは、明治漁業法以来の水産庁の多くの先輩達から「漁業法の哲学」を引き継ぎ、それを守られてきたのである。

 

浜本さんとの論争

 

 埋立の際に、漁協の総会決議で埋立同意が決められるか否かという問題についての浜本説は次のようである。

 漁業法・水協法は、権利主体を漁協とした。しかし、それは、あくまで漁業生産力をより発展させる目的 (漁業法・水協法の目的を参照)の限りにおける擬制である。この擬制は、埋立など水面を消滅させ、漁業生産力を衰退させるような時には働かず、したがって、埋立の際の権利主体は漁村部落である。したがって、水協法50条の漁協の総会決議では埋立に同意できず、慣習に基づいて漁民全員の同意が必要である。

 私は、浜本説にほぼ同意する。しかし、浜本説に対して無批判に接してきたわけではなく、いくつかの相違点もある。最も大きな違いは、共同漁業権の管理主体に関する見解である。浜本説は、漁協が漁業権の免許を受けることをもって、漁協は漁業権の管理主体であるとする。したがって、水協法に基づいて漁協が共同漁業権の得喪変更を決めることも可能とする。

 他方、私の説は、「漁業権の管理主体は漁協ではなく、漁村部落(部落漁民集団、漁業法の用語を用いれば関係地区漁民集団)である」とする。「漁協は、共同漁業権の免許を受けるものの、それは部落漁民集団が法人格を持たないために、それに近い法人である漁協が選ばれているからであり、漁協は免許を受ける際の単なる名義人にすぎない」、「漁協が免許を受けても、共同漁業権の権利主体(管理主体)はあくまで部落漁民集団である。それは、入会地が漁協の名前で登記されていようとも、真の権利者が入会団体であるのと全く同様である」というものである。したがって、共同漁業権の得喪変更を決め得るのは、漁協でなく部落漁民集団であることになる。

 『海の「守り人」論』(まな出版企画、1996)における対談でもそうであるように、浜本さんとは、相違点に関し、しばしば論争したし、時にはかなり激しくやりあうこともあった。しかし、私は、私の説も、長年の議論をつうじて浜本さんによって作られたように感じている。

 あるとき、激しい論争の後にふっと洩らされた「浜本説と全部一致されても困るんだ」という言葉もそのことを物語る。

 

鉱業法の講義

 

 志布志以降も、私は、住民からの問い合わせを受けて、埋立をめぐるいくつかの住民運動に関わってきた。

 白保の新空港、唐津の佐志浜埋立、高知の大手の浜埋立等の問題である。

 それらに関しても、私は、自分で考えたうえで、自分の見解が正しいかどうかの確認を、いつも浜本さんに問い合わせてきた。まず間違いないと思いながらも、浜本さんの同意を得ることで安心するとともに、自信を持って見解を外に対して披瀝することができた。

 1999年になって、急に漁業権に関する問い合わせがぞくぞくと舞い込んだ。天草本渡港の埋立問題、熊本県の川辺川ダム問題、兵庫県相生港の埋立問題等である。なかでも、川辺川ダムと相生港は大きな問題であった。前者は初めてのダム(内水面)問題、後者は公有水面埋立免許の性質に関わる問題だからである。これらの問題に関してご意見を伺おうとご自宅にお電話した時、浜本さんの入院を知った。

 1999年4月17日、入院中の浜本さんは、わざわざ病院に外泊届けを出され、ご自宅で鉱業法の講義をしてくださった。放射線治療を始められて大変苦しい体調であったにもかかわらず、我妻栄・豊島陞『鉱業法』(有斐閣法律学全集51)の要所を自らワープロで打ち出し、それを逐一読みあげながら、土地所有権など既存の権利と鉱業権との調整について、詳しく説明してくださった。自らの生命が燃え尽きる前に後輩に伝えておこうとの並々ならぬ気迫を感じながら、また有難さと感謝の気持ちでいっぱいになりながら、講義を拝聴した。浜本さんから、それまで何度か「鉱業法を勉強すると公有水面埋立法がわかるようになる」と伺っていたものの、鉱業法のどこがどう参考になるのかよく分からなかったが、おかげで公有水面埋立法についてよく分からなかった部分が霧が晴れるように理解できた。

 兵庫県相生港の埋立に関する、「埋立免許取得者は妨害排除請求権を持たない」旨の私の意見書(1999年4月24日付神戸地裁姫路支部宛)は、こうしてできたのである。

 「生き甲斐になる」

  入院されているところに質問をしたりご意見を伺いにお訪ねするので、私も気兼ねをしながら「入院中に申し訳ありません」と何度か口にした。

 しかし、浜本さんは、その度に「これがないと生き甲斐がないんだ」と言ってくださった。決して私への配慮からだけでなく、心底そう思われているようだった。ご家族もまた、そうおっしゃってくださった。

 浜本さんは、額に汗して働く漁民を心から愛されていた。そんな浜本さんのことだから、埋立をはじめとした乱開発によって、漁民が生活の場を奪われたり、補償金におぼれたりしていくのを苦々しく思われていたはずである。しかし、国の役人の立場では、乱開発に表立って異を唱えるわけにはいかず、内心悔しい思いを懐かれてきたにちがいない。それゆえにこそ、私からの相談に喜んで応じるばかりか、それを生き甲斐にさえしてくださったのではあるまいか。

 「浜本さんが現地に直接行って説明してくださいよ」との私からの要請に対して、浜本さんは、いつも「それはできない。だけど貴方には教える」と言われていた。国の役人としての一線を守りつつ、私をつうじて自分の思いを実現しようとされていたのではないだろうか。

 問い合わせは、これからも次々に舞い込んでくる。浜本さん亡き後、私はほとんど独力でそれらに対処しなければならない。そのことを想うと気が重くなる。

 しかし、浜本さんを送るお通夜の際、水産庁の坂本幸彦さんが言われた「浜本さんは誰も相談する人がいなかったんだよ。その重さに耐えてこられたんだよ」との言葉を想い起こしつつ、それに耐えていきたいと思う。そのことをつうじて、二十年にもわたり教えてくださった、またあの気迫に満ちた鉱業法の講義をしてくださった浜本さんに報いていきたい、と念じている。

 自分の利益ばかり求める官僚・学者・企業人ばかり増えた昨今、浜本さんの生きかたは実に立派であった漁民の立場にたって行政を行うという水産庁の伝統を誇りにし、それを守り、貫かれた一生であった。

(漁業経営センター『月刊漁協経営』2000年2月号より)

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