まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録
TSUGE HIMURO |
|
都祁氷室に関する一考察 |
掲載誌: 龍谷大学考古学論集T,2005年3月31日,同論集刊行会発行
川村和正 *
Kazumasa Kawamura
要旨 古来、都祁(つげ)といえば『日本書紀』仁徳天皇62年条の闘鶏(つげ)氷室説話を思い起こさせるが、古代都祁郷に比定される天理市福住町には往古から氷室神社や伝氷室跡など氷室史跡が在る。近年、同町内や都祁郷本地の都祁村で伝氷室跡類似の大型穴が発見され、さらに発掘調査による氷室と推定される円形摺鉢状遺構の出土が報告されだした。これら氷室跡とおぼしい各種推定氷室遺構の分布状況を検討究明し、木簡を含む関係史料や文献と突き合わせ、都祁氷室の様相並びに推移を解明しようと試みた。 なお、本稿は、本学国史学専攻2002年度卒業論文『古代氷室制度に関する一考察―都祁氷室を中心にして―』より都祁氷室に関する事項をまとめたものである。 キーワード:氷室(ひむろ)、円形有段遺構、主水司(もんどのつかさ・もひとりのつかさ) |
|
○編者MANAより:川村和正さんは奈良在住の郷土史・考古学研究者です。古代氷室の研究を 終生のテーマときめ、龍谷大学大学院(修士)でも、これまでの先学の研究を踏襲されながら常にパイオニアスピリットをもって未知の研究ジャンルに取り組んでいます。古代氷室の考古学的研究のためにと、朝鮮半島の氷室遺跡や遺構の調査、朝鮮歴代王朝の残した文献史学調査もすすすめられています。また、MANAにとっては、一番関心のある近世定着していく「氷朔日」(六月一日)の習俗と明治維新以後の天然氷の利用をめぐる「明治維新の氷水」に関する雑文をまとめていくときの、関西における情報交換と相談役を引き受けてくれ、氏の専門外でもある 「氷朔日習俗」や「中川嘉兵衛事歴」等の近世文献探索にもご協力いただいている「氷業史研究」のトシの差を越えた「同士」でもあります。2005年夏にすでに、川村さんの研究業績をホームページで紹介するつもりで、 ライブラリー8の竹井巖先生の2編の論文を頂戴していただいていたのですがアップすることが出来ずにいたのですが、2006年夏、ようやく2氏との約束が果たせることになりました。 (2006年7月23日UP) ○論文で使用されている専門用語や、地名など一般では馴染みが薄い難読漢字には、川村さんのご了解のうえでMANAによりひらがなで訓ミ(ふりがな)を付し「氷室(ひむろ)」のように小字で挿入してあります。また、論文の発表時において誤植・訂正がある部分においては、川村さんのご指示によって修正したものを公開してあります。 また、ネットでは文字化けするか表記が出来ない漢字や記号については「*」で示し、〔*=△/○〕や〔*=△+○〕で、ヘンやツクリ、カシラやアシを「/」(上下)や「+」(左右)で示しておいた。また、引用資料中の「□」は、原資料における欠部ないし判読不能箇所を示す。 ○川村和正さんプロフィル:1939年 大阪府生まれ。現・奈良市在住。龍谷大学文学研究科修士課程(国史学専攻)修了。古代氷室に関する論考を続ける。主な執筆論文は、「天理市福住町の氷室状大型穴踏査レポート」(『かしこうけん友史』3号、奈良県立橿原考古学研究所友史会)1996年、「都祁村藺生の氷室状型穴の発見」(『冷凍』75巻872号、社団法人日本冷凍空調学会)2000年、「宇陀の氷室状大型穴について」(『かしこうけん友史』6号、奈良県立橿原考古学研究所友史会)2003年、「都祁氷室の成立と変遷について」(『研究紀要』第10集、財団法人由良大和古代文化研究協会)2005年。 MANA(なかじまみつる) |
はじめに
21世紀を迎えた今日、氷や冷凍食品は極めて身近なもので、現代人は野菜・魚・肉類の保存・輸送に際し冷蔵・冷凍技術の発達により水や空気と同じく日常生活に恩恵を受けている。氷利用の起源は、日本では『日本書紀』仁徳天皇 62年条の闘鶏(つげ)氷室説話が濫觴とされる。この氷室説話に登場する闘鶏は都祁、都介とも書き、近年、長屋王家発掘調査で都祁氷室木簡が出土したことで、都祁氷室への関心が高まった。また、奈良県山辺郡都祁(つげ)村内で氷室と推定される遺構が発掘された。さらに、氷室神社や伝氷室跡がある奈良県天理市福住町や古代都祁郷中心地の都祁村で類似の 摺鉢状をした大型穴が多数発見された。このような類例は宇陀や京都市西賀茂でも知られ、関東地方で氷室の可能性がある円形有段遺構が多数出土しており、各種推定氷室遺構が報告されだした。
本稿は、これら氷室関係知見を抽出し、都祁地域の各種推定氷室遺構を中心に都祁氷室の様相や変遷などを追い、古代氷室制度のあり方を考えたい。
1.都祁氷室に関する先学研究について
都祁氷室は『日本書紀』(以下、『紀』と略称する)の闘鶏氷室や、『延喜式』主水司式(以下、主水司式と略称する)の都介氷室で知られ、奥野高広氏の諸司領研究や(1)、大西源一氏の氷室研究で(2)、古代の主要氷室として取り上げられた。滝川政次郎氏は都祁紀行文において主水司式、『元要記』氷室社条などを検討し都祁氷室・氷室神社や平城(奈良)氷室神社を考証した(3)。
はじめて都祁氷室をテーマとして、そのあり方を分析検討されたのが井上薫氏であった。井上氏は都祁氷室と都祁地方の関係を詳細に考察し、以後の古代氷室研究の指針となった(4)。最近、高橋和広氏は長屋王家出土氷室木簡を検討し、都祁氷室を中心に、これまで史料不足のため研究が進まなかった奈良時代の氷室制度を論証した(5)
近年の古代氷室研究は文献学のみならず、歴史地理学分野から田中欣治氏の氷室の立地や設営要件に関する研究がある(6)。また、考古学分野から中山晋氏は北関東を主に、大型の円形有段遺構資料を集成し、古代氷室との関係を究明する研究を行った(7)。これらの論考においても福住町の伝氷室跡など都祁地域の各種
推定氷室遺構が重視されている。以上、都祁氷室に関する主な先学論考を概観したが、その実態は未解明である。
2.都祁地域の各種推定氷室遺構について
都祁は大和盆地の東方に位置し、都祁村、天理市福住町、同市山田町を含む地域である。奈良盆地とは比高差約400m、温度差も約3〜5度あり、冬季の氷作りの適地であったとされる(8)。古代都祁郷の中心地の都祁村には闘鶏国造の墓と見られる三陵墓東
・西両古墳があり、『紀』の氷室説話の闘鶏稲置(つげのいなぎ)の存在を髣髴とさせる。主要な氷室関係史跡は都祁村の西隣の福住町にあるが、近年、都祁村内にも各種
推定氷室遺構が発見されだしている。
(1)福住町の氷室状大型穴
福住町は天理市の東方山間部に所在し、地理的には都祁地域の西端部に位置する。同町の氷室神社の起源は定かでないが、古来、主水司式の大和国都介氷室に比定される。伝氷室跡は氷室神社の東南約400mの字室山の丘陵尾根上にある。井上薫氏は氷室神社と伝氷室跡・氷池跡が近接すること、平城京に極めて近い地点に存在するなど諸条件を考証し、この遺構を都介氷室跡とされた(9)。近年、同町の西端部開発時に、室山の伝氷室跡と類似した摺鉢状の大型穴が多数発見され、その後の踏査により同町東端部にも類例が残っていることが判ってきた(10)。そこで、これらを氷室状大型穴と仮称して字名単位にまとめたのが図1、表1である。
![]() |
図1 天理市福住町氷室状大型穴分布図 |
室山群は氷室神社と対をなす氷室跡として知られるが、近世中期の地誌『大和志』は都介氷室を山田村(現天理市山田町)に比定するので、近年まで氷室神社ほど意識されていなかったようである(11)。
前述のごとく、この室山群を実測調査し学会に紹介されたのが井上薫氏で、以後、広く認識を得るようになった(12)(図2)。室山群は北西から派生する二つの丘陵尾根に 3基ずつ分布しており、南西側の尾根の3基をA支群(bP〜3)、北東側の尾根の3基をB支群(bS〜6)とした。往古の氷池と伝わる茅荻池(ちすすぎいけ)伝承地が二つの丘陵の谷合にあり、ここで採れた氷を両サイドの氷室に収納したと想定される。
さて、1993年頃、同町西端部開発時に発見された氷室状大型穴が池ノ内群(bV〜9)で、その後の踏査により奉書谷群・尾広群(bP0〜bP6)が見つかった。さらに、町の東端で 都祁村と
![]() |
図2 室山A支群実測図 |
|
図3 都祁村各種推定氷室遺構分布図 |
の境の小野味地区に残るのが小野味群(bP7〜21)で、5基の氷室状大型穴が確認された。これら、新たな氷室状大型穴の分布する地域は、氷室神社宮座の丹生田座に関係する地域であり、当地の氷室伝承との関連で氷室跡の可能性が考えられる(13)。
以上、同町東西約4kmの範囲に確認できた氷室状大型穴は20数
基を数える。これらは町の西端、中心、東端にまとまりを持ち、全て水田を臨む丘陵地域に分布している。特筆できるのは、3基1グループで構成されるものが多いことである。また、全てのグループが布目川支流の水源地や分水嶺付近の水田を臨む丘陵地帯に分布するのも特徴である。
(2)都祁村の各種推定氷室遺構
都祁村は福住町の東南に位置し、古代都祁郷の中心地にあたる地域であるが、具体的に氷室設営を伺わせる史料、伝承、史跡が無く古代氷室との関係は不明であった。その都祁村藺生(つげむら・いう)所在の葛神社裏山に氷室状大型穴が残ることを確認されたのが井上薫氏であった(14)。その後、村内に氷室と推定される遺構が発見・発掘され、地域単位にまとめたのが図
3、表2である。
藺生群(bP〜5、図4)は藺生の葛神社周辺の丘陵麓にあり、既報告のもの1基と1999年の踏査で発見した4基である(15)。上部径が約8m〜約10mの規模を有するものが多いこと、3基1グループに
まとまるものがあることなど福住町の氷室状大型穴に類似する。また、藺生群は布目川上流の水源地周辺の水田を近くに控える丘陵麓に分布する点も福住町の立地と同じくする。
ゼニヤクボ群(bU〜9、図5)はゼニヤクボ遺跡第6・7次発掘調査で検出された遺構4基で、これら大型の摺鉢状土坑は、法面には覆屋の柱穴とみられるピットもあり、発掘担当者が氷室跡と推定される(16)。トノニシ遺跡の推定氷室遺構(bP0、図 6)は、1991年に発掘された上部径約4.9m〜約5.3m、
深さ約2.6mの円形遺構である(17)。遺構断面が摺鉢状を呈し、底部にもう一段直径約 0.9m、深さ約0.4mのビットが設けられ、形状は円形有段状を呈す。土坑の性格は、福住町の室山群の立地や形態に類似することから氷室と見られる(18)。
|
|
図4 藺生群氷室状大型穴分布図 |
図6 トノニシ遺跡推定氷室遺構 |
![]() |
|
図5 ゼニヤクボ群推定氷室遺構 |
なお、類例は中山晋氏により栃木県を主に関東で多数抽出された円形有段遺構にみられ、氷室の可能性を提起されている。中山氏は栃木県下で検出された性格不明の円形有段遺構に注目し、底部土壌の理科学分析を行い、基底部から検出された水性珪藻を氷 融解物と推考され、小穴の用途が排水を目的として古代氷室の可能性が高いとされた(19)(図7)。円形有段遺構は氷室の原形を知る上で貴重な資料であり、古代氷室の実態究明を進める上で重要な遺構である。
以上、古代都祁郷に比定される福住町及び都祁村の各種推定氷室遺構を抽出した。中でも、氷室状大型穴は、なんらかの規則性を持って分布していることが伺え、古代氷室を解明するにあたり重要な資料と考えられる。
3.他地域の氷室状大型穴について
氷室状大型穴と古代氷室の関係を検証するため、他地域の類例の分布状況や立地などを見ておきたい。
(1)宇陀の氷室状大型穴
宇陀と氷室の関わりは、『古事記』神武
記に「宇陀水取等之祖」、『紀』神武紀2年春2月条に「莵田主水部遠祖」と記す猛田県主(たけだのあがたぬし)に派生し、宇陀が水取(主水)部の発生の地で古代氷室のルーツとされる。宇陀の氷室伝承は近世の『大和名所記』宇陀郡項の氷室条(20)、『大和志』宇陀郡項(21)、及び近・現代の『奈良県宇陀郡史料』(22)、『改訂大宇陀町史』(23)などに記され、宇陀の水取部の伝統を伺わせる。
![]() |
![]() |
図7 栃木県内の円形有段遺構例 |
図8 莵田野町松井氷室状大型穴分布図 |
![]() |
![]() |
図9 京都市西賀茂氷室関係史跡分布図 |
図10 西賀茂群氷室状大型穴実測図 |
宇陀の氷室状大型穴は宇陀郡莵田野(うだの)町松井の天神社周辺の標高約390mの丘陵地帯にあり、松井群としてまとめたのが図8、表
3である。A支群は天神社の裏山の7基(bP〜
7)で、3基単位にまとまるものが2グループあるのが特徴である。B支群は西側の称名寺裏山の6基(bW〜13)で、単独で分布するのがA支群との相違点である。
なお、当群が芳野川に注ぐ谷川沿いの水田地帯を臨む丘陵中腹に分布することは都祁地域に類似する。
(2)京都市西賀茂の氷室状大型穴
京都市北区西賀茂氷室町は鷹ケ峯北方約5kmの標高約380mの山間部に所在し、主水司式の栗栖野氷室に比定される。当地には氷室神社と氷室状大型穴3基が残っており、西賀茂群と仮称してまとめたのが図9である。これらの氷室関係史跡についての研究は、竹村俊則氏の京都北山紀行文や(24)、北田栄造氏の栗栖野氷室の論考が知られる(25)。なお、最近、屋木英雄氏は西賀茂氷室の氷室関係史跡について鵜原氷室比定説を提起されている(26)。
西賀茂群は上部径が約6〜7mと小型であるが、3基が三角形状にまとまり(bP〜3、図10、表4)、都祁地域の分布状況と共通する。しかも、本群は水田から近距離の山麓にあり、氷室神社と関係することなど、福住町と類似点が多く古代氷室解明に重要な遺構である。
4.氷室状大型穴と氷池・氷室の関係について
このように都祁地域、宇陀、京都市西賀茂などに残る氷室状大型穴は、普遍的に存在する性格のものでなく、極めて特殊な遺構と言え、各地の氷室状大型穴の分布状況、立地、環境を整理し、古代氷室との関係を検討したい。
まず、氷室設営は氷池との関係を考える必要がある。明治時代の生駒地方の天然氷作り資料によると、当時の氷池は山陰で日当たりの悪い場所にあり、水田のような浅い池が使われたとされる(27)。ちなみに、現代の関東秩父地方で行われている天然氷作りの氷池も、冬季に終日陽の当らない山陰の浅い方形の
池である(28)。都祁地域はじめ各地の氷室状大型穴は氷池に想定できる水田近くの丘陵地に分布している。すなわち、氷室は氷池の近くの丘陵の尾根頂部、中腹、山麓に設営されていたと推定される。
さらに、各群は、河川支流の分水嶺や谷合周辺に分布するが、水質に関係すると考えられる。つまり、氷池は岩清水や谷水のような清浄な水が得られる谷や沢近くに設けられたと類推できる。その典型例は福住町の室山群と谷合の茅荻池伝承地のセット関係に見られる。
また、各群の氷室状大型穴は丘陵地帯に分布する。中世後期の史料『実隆公記』永正6年(1509)3月11・14日条(29)に、氷室の周囲の 木が切取られたため、氷が融け出したという記述がある。このことは、氷室には光や雨・風からさえぎる樹木が必要なことを示すので、氷室は山中に設けられていたことが伺える。さらに、歴史地理学的見地から福住町の室山を調査された相馬 秀廣氏は、同町周辺に分布する花崗岩の風化したマサという掘り易く水はけの良い土壌も氷室設営に重要と指摘される(30)。
なお、各群は都祁、宇陀、京都西賀茂など古代氷室伝承地に分布することも共通し、古代宮都周辺地域の標高380m以上の山間部で冬季寒冷激しい地域である。しかも、各地とも氷を迅速、かつ、古代宮都へ運べる位置的環境に適合する地域と言える。以上、各要件を総合して氷室状大型穴は古代の氷室跡の可能性が高いと思われる。
5.古代氷室史料と都祁地域の各種推定氷室遺構との関係検討
(1)『紀』仁徳天皇62年是歳条 闘鶏氷室説話
「是歳 額田大中彦皇子猟于闘鶏時皇子自山上望之 瞻野中有物 其形如盧 仍件使者令視還来之日窟也 因喚闘鶏稲置大山主 問之曰 有其野中者何 *矣 啓之曰 氷室也
(後略)」 〔*=穴/音、窟(屈→音)=窖=ムロ〕
古来、氷室といえば、闘鶏或いは都祁・都介氷室が連想されるのは、本条文によるといって過言ではなく、古代氷室研究の原点と言える。客観的にみて、都祁に氷室が設営された年代が仁徳朝に遡ることは史実と思えないが、『紀』に採録されたことから、『紀』編纂時に闘鶏氷室に関する伝承が存在したことは否定できない。また、その背景として、 8世紀前後の主水司所管の主要氷室は、都祁氷室であった可能性が高く、7世紀末〜8世紀初頭の都祁郷に氷室が設けられていたとしても矛盾しない。仮説的ではあるが、都祁村吐山のトノニシ遺跡の推定氷室遺構は距離的に飛鳥.藤原宮への進氷が考えられ、藺生群、ゼニヤクボ群も関係する可能性が生じる。
(2)『養老令』職員令主水司条
「樽水 主水司正一人 掌*粥 及氷室事 佑一人 令史一人 氷部卌人 使部十人 直丁一人 駈使丁廿人氷戸」 〔*=饌(巽→亶) =セン、*粥=センシュク。卌人=40人。〕
本条文は宮内省主水司の氷室管理の職掌や員数を規定するが、氷室管理の詳細や具体的な所在地が記されない。しかし、平城京との距離関係を考えると、都祁氷室が奈良時代の主力氷室であったと思われる。その具体的な場所は不明であるが、範囲は都祁
村、天理市福住町、同市山田町域が推定される。
(3)平城京出土の氷室関係木簡
1)長屋王家出士都祁氷室木簡(史料1)
1988年、長屋王家発掘調査時に出土した都祁氷室関係木簡(以下、都祁氷室木簡と略称する)3点(1号木簡から3号木簡と仮称)は、奈良時代初頭の氷室経営の状況を記す古代氷室研究の貴重な資料であることは周知される。
1号木簡は、表面に「都祁氷室二具、深各一丈(約3m)、廻各六丈(円周約18m=径約5.7m)」と氷室の数や規模など氷室設営に関する詳細が記されている。裏面は「和銅五年 (712)二月一日」の年紀が記される。2号木簡には年紀は無いが、表面の「閏月・閏六月」は和銅4年(711)閏6月を意味する(31)。裏面の「都祁氷進始日」は、同年 「七月八日」都祁氷室から氷貢進が始まったことが読み取れる。「八月廿日」まで15回以上にわたり多数の長屋王家家人が関わり、都祁から氷が運ばれたことが判る。3号木簡裏面の 「九月十六日」は陽暦の10月中旬にあたり、季秋にも進氷されている。
|
史料1 長屋王家出土都祁氷室木簡(本木簡は天地逆部分は読みやすくするため同方向に改編転載した) |
本木簡群は都祁に長屋王家直轄の氷室が経営されていたことを明らかにした。また、奈良時代初頭の都祁氷室の構造や経営状況が具体的に記され、遷都翌年に都祁氷室から長屋王家へ足繁く進氷されていたことが判明した。
2)主水司関係木簡
1966〜1968年、平城宮東張出部発掘調査で主水司に関係するとみられる遺構から出土した習書木簡(史料2)には、都祁及び主水司水部名負氏の鴨縣主が記載されるので、主水司所管の氷室が都祁に設けられていたことを窺わせる(32)。
|
史料2 主水司関係木簡 |
これらの氷室関係木簡により、長屋王家及び主水司所管の公私双方の氷室が都祁に設営されていたことが伺えるので、都祁氷室の上限が奈良時代初頭に遡ることが確認できる。また、都祁氷室 2号木簡は、都祁氷室が和銅 4年(711)7月8日に進氷を開始したことを示すので、都祁に遷都直後の和銅3年(710)冬季(11月頃)までには、長屋王家専用氷室が設営されていたと類推できる。
その候補地のひとつとして、福住町西端部は平城京との距離が都祁村より約4〜5km短縮されるので、平城遷都を契機に氷室が増・新設された可能性が考えられる(33)。同町西端部で発見された氷室状大型穴は、その頃に遡ることができるかもしれない。
(4)『日本紀略』天長8年(831)8月20日条
「□(山)城河内□(両)国各加置氷室三宇 供御闕乏也」
本条文は山城河内両国に氷室を加え置く旨を記し、都祁は氷室に関係しないが、注目すべきは「氷室三宇」で、各氷室伝承地に残る氷室状大型穴が3基単位に纏まる分
布状況と奇しくも符号する。偶然の一致であろうが、氷室が3宇単位で設営されたことを指摘できる。
(5)主水司式氷室関係条文
『延喜式』条文は平安時代の氷室管理の詳細が規定されるので、古代氷室制度研究には欠かせぬ史料であるが、未解明の部分が多い。都介氷室に関係する部分を抽出(史料
3)し、都祁地域の各種推定氷室遺構と突き合わせ、実態を少しでも究明したい。
|
史料3 主水司式氷室関係条文 |
1)氷池の祭祀
「氷池神十九座祭」や「氷池風神九所祭」は山城、大和、河内、近江、丹波各国に氷室が設置され、氷池神や氷池風神を祭られたことを示す。また、これらの神祭は現在僅かに残る氷室神社に繋がると考えられ、「大和国一所」は福住町の氷室神社とされる(34)。このことから、都祁氷室は平安遷都後も都介氷室として継続していることが確認できる。
2)氷馬役
「凡運氷駄者」以下は氷輸送に徭丁を充てること、及び氷室の場所名、氷室別一駄あたりの徭丁数などが規定される。大和国都介氷室の「六丁輸一駄」が最多であるのは、各国氷室の中で、京都までの距離が最長であった証左である。
3)氷室雑用料
本条文は氷室管理に関する実務的な規定であるが、具体的な内容や規模は理解し難い。例えば、氷室「廿一所」以下国別室数が記されるが、「室」の具体的な数値は不明である。ちなみに、井上薫氏は「大和二室半」が室山の氷室跡
(本稿室山
A支群1〜3)に対比できるかもしれないと氷室跡と「室」との関係を考証される(35)。
さて、大和都介氷室の規定を抽出すると、氷室2室半(全21室の11.9%)、徭丁100人半(全796人半の12.6%)、見役81人(全 621人の13%)と主水司所管氷室の約12%であるが、「氷池卅處」は5.5%(全540處)と少ない。氷室1室あたり氷池数においても、平均25.7處に比べて12處と少ないが、この理由は不明である。
なお、主水司の氷室は、氷室状大型穴の分布状況や円形有段遺構の構造から想定して、底部中央部に排水用の小穴を穿ち、断面が摺鉢状を呈する円形大型穴が丘陵地帯に設営され、単独或いは複数(3基単位か)のまとまりをもって展開していたと思われる。氷池の構造や規模は不明であるが、茅荻池伝承地や近現代の天然氷作り資料から、水田のような浅い氷池が用いられ、氷室の周囲に配置されていたと推定される。
また、前述のごとく、福住町の氷室神社が主水司式の「氷池風神大和国一所」に比定されるので、都介氷室は福住町内や周辺に設けられたと推察され、同町の西端部、室山、小野味の氷室状大型穴はその時期の遺構の可能性が考えられる。その中心は氷室神社近隣の室山群で、茅荻池伝承地も当時の氷池の蓋然性が高い。
6.都祁氷室の様相と推移について
以上、都祁氷室に関する主要な史料や文献を抽出し、都祁地域の各種推定氷室遺構の実態解明を試みた。ここで、都祁氷室の様相と推移について、若干、検討しておきたい。
都祁氷室の上限が大化前代に遡るかは定かでは無いが、前述のごとく『紀』編纂時には存在した可能性は高いと思われる。一方、宇陀にも氷室伝承及び氷室状大型穴が残ることから、白鳳期頃までは、都祁と同じく氷室設営地のひとつであったことは否定できない。
しかし、平城遷都を契機に距離的に優位で、伝統ある都祁氷室が主力を占めることになったと思われる。都祁氷室木簡より、遷都直後、都祁に長屋王家の氷室が設けられたことが類推できるので、都祁には、主水司所管の氷室や王臣家の氷室が増設されていたことが窺える。前述のごとく、平城京との位置関係から、都祁における氷室増設地域は、福住町西端部が有力視される。その後、需要増に応じ、福住町中心の室山や小野味に広まったと想定される。また、『大和志』は都介氷室を山田町に比定することから、近世初頭まで氷室伝承があったと推定され(36)、同町にも氷室が設営されていた可能性が考えられる。なお、都祁村藺生やゼニヤクボなど都祁村南西部の氷室群からも福住町或いは、山田町経由の道程を使って平城京へ進氷していたと考えられる。
平安遷都後、都祁氷室は距離的に氷輸送が極めて難しくなったと思われるが、何らかの方法でこれを克服して、主水司式に示されるごとく都介氷室として継続していることが判る。平安時代の都介氷室の範囲は、都祁村の各群は距離的に氷輸送が困難なため廃絶し、都祁地域西端部の福住町や北西部の山田町に限定されたと思われる。福住・山田両町の氷室の中核は、氷室神社近傍の室山群であったと類推される。
なお、平安時代後期の史料『朝野群載』康和3年(1101)「主水司解文」に「就中、大和国都介御室(氷室)、昔毎年厚封」と記すので(37)、12世紀初頭においても都介氷室は重要視されていたことが伺え、平安時代を通じて主水司所管の主要氷室として取り扱われていたと言える。
その後の都祁氷室の推移を史料で追うと、『民経記』寛喜3年(1231)9月9日条に「主水司□大和国都介氷室勾頭職事」と勾頭職が置かれている(38)。『康富記』嘉吉 3年(1443)12月23日条に「主水領大和国都介氷室字福住と号ス」と記され(39)、福住町内に限定されるが継続していることが確認できる。なお、『実隆公記』永正 7年(1510)8月25日条「和州福隅氷室舞谷違乱事」を最後に史料が途絶え(40)、 16世紀初頭が下限であることが確認される。
このように、都祁氷室は8世紀初頭から16世紀初頭まで主水司所管氷室として活動したことが確認できる。福住町内に氷室状大型穴が多数残るのは、16世紀まで主水司所管の氷室として活動が継続していたこと、氷室神社や宮座氷室伝承などが近世を通じて現代にいたるまで存続したことが関係すると思われる。
おわりに
憶測を重ねる結果となったが、都祁地域の各種推定氷室遺構を軸に、都祁氷室関係史料、考古学的知見などを抽出し突き合せ、都祁氷室の様相及び推移を追い実態解明を試みた。まず、都祁地域の各種推定氷室遺構は確証に欠けるも古代氷室跡の可能性が高い。特に、福住町の氷室状大型穴は古代から中世まで継続して使われた氷室の可能性があり、都祁氷室成立解明のキーになると思われる。
しかし、資料が多岐にわたり、論旨が明確にできず、未解明の部分が多々残った。今後、円形有段遺構を含む氷室関係資料を収集し、都祁地域の各種推定氷室遺構との比較検討を進め、都祁氷室の実態にせまり、歴史的位置づけを明らかにすることが課題である。
表1 天理市福住町氷室状大型穴一覧表
川村和正「天理市福住町の氷室状大型穴踏査レポート」『かしこうけん友史』第3号32頁1996年一部改編
グループ名 |
氷室状大型穴名称 |
上部径(m) |
底部径(m) |
深さ m |
断面の形状 |
|||
東西 |
南北 |
東西 |
南北 |
|||||
1 |
室山A支群 |
室山A1 |
8.4 |
10.6 |
2.5 |
4.9 |
2.67 |
摺鉢状 |
2 |
〃 |
室山A2 |
9.4 |
7.5 |
2.5 |
2.2 |
2.20 |
〃 |
3 |
〃 | 室山A3 | 約4.1 | 約4.4 | 約1.4 | 約1.8 | 約0.5 |
皿状 |
4 |
室山B支群 | 室山B1 | 約11.0 | 約10.0 | 約2.8 | 約1.8 | 約2.0 |
摺鉢状 |
5 |
〃 | 室山B2 | 約11.8 | 約11.3 | 約3.0 | 約2.5 | 約2.5 | 〃 |
6 |
〃 | 室山B3 | 約11.9 | 約12.8 | 約3.2 | 約3.2 | 約2.2 | 〃 |
7 |
池ノ内群 | 池ノ内1 | 約7.5 | 約7.3 | 約1.6 | 〃 | ||
8 |
〃 | 池ノ内2 | 約8.5 | 約7.4 | 約2.8 | 約2.9 | 約1.8 | 〃 |
9 |
〃 | 池ノ内3 | 約10.6 | 約8.4 | 約2.9 | 約2.2 | 約1.9 | 〃 |
10 |
奉書谷A支群 | 奉書谷A1 | 約10.0 | 約12.0 | 約4.5 | 約4.8 | 約2.2 | 浅鉢状 |
11 | 〃 | 奉書谷A2 | 約7.0 | 約7.5 | 約2.1 | 約2.5 | 約1.5 | 〃 |
12 | 〃 | 奉書谷A3 | 約8.7 | 約8.5 | 約2.2 | 約2.0 | 約2.4 | 摺鉢状 |
13 | 奉書谷B支群 | 奉書谷B1 | 約7.8 | 約6.4 | 約3.9 | 約3.3 | 約1.3 | 皿状 |
14 | 〃 | 奉書谷B2 | 約8.7 | 約8.5 | 約5.3 | 約5.2 | 約2.4 | 〃 |
15 | 〃 | 奉書谷B3 | 約8.7 | 約8.5 | 約5.3 | 約5.2 | 約2.4 | 〃 |
16 | 尾広群 | 尾広 | 約7.8 | 約7.5 | 約3.0 | 約3.0 | 約2.4 |
摺鉢状 |
17 | 小野味群 | 小野味1 | 約5.5 | 約7.5 | 約2.3 | 約3.0 | 約2.7 | 〃 |
18 | 〃 | 小野味2 | 約7.0 | 約9.3 | 約2.5 | 約3.3 | 約1.5 | 浅鉢状 |
19 | 〃 | 小野味3 | 約7.6 | 約8.8 | 約3.0 | 約4.8 | 約1.1 | 〃 |
20 | 〃 | 小野味4 | 約7.7 | 約5.4 | 約3.9 | 約3.8 | 約0.9 | 皿状 |
21 | 〃 | 小野味5 | 約4.2 | 約3.8 | 約1.7 | 約1.7 | 約0.7 | 摺鉢状 |
表2 都祁村各種推定氷室遺構一覧表
(川村和正「都祁村藺生の氷室状型穴の発見」2000年一部改編)
|
グループ名 |
上部径(m) |
底部径(m) |
深さ (m) |
断面の形状 |
||
東西 |
南北 |
東西 |
南北 |
||||
1 |
藺生A支群 |
約7.9 |
約10.5 |
約2.0 |
約2.4 |
約2.0 |
摺鉢状 |
2 |
〃 |
約4.3 |
約8.0 |
約2.0 |
|
約0.9 |
浅鉢状 |
3 |
藺生B支群 |
約 9.1 |
約4.5 |
約2.2 |
約1.5 |
約3.1 |
摺鉢状 |
4 |
〃 |
約6.5 |
約9.5 |
〃 |
約4.0 |
約0.7〜1.5 |
浅鉢状 |
5 |
〃 |
約8.1 |
約6.5 |
約2.0 |
約2.8 |
約2.0 |
摺鉢状 |
6 |
ゼニヤクボ群 |
7.0〜7.7 |
3.4〜3.7 |
不明 |
摺鉢状土坑 |
||
7 |
〃 |
約8.0〜7.0 |
不明 |
不明 |
約1.5 |
〃 |
|
8 |
〃 |
約7.0 |
〃 |
〃 |
約1.0 |
〃 |
|
9 |
〃 |
約6.0〜7.0 |
〃 |
〃 |
約1.7 |
〃 |
|
10 |
トノニシ群 |
5.3〜4.85 |
〃 |
〃 |
約2.6+0.4 |
円形有段遺構 |
(川村和正「宇陀の氷室状大型穴について」2003年一部改編)
|
グループ名 |
上部径(m) |
底部径(m) |
深さ |
断面の形状 |
||
東西 |
南北 |
東西 |
南北 |
||||
1 |
松井A支群 |
約10.5 |
約10.5 |
約2.5 |
約3.0 |
約1.5〜2.0 |
摺鉢状 |
2 |
〃 |
約7.5 |
約8.0 |
約3.0 |
約3.5 |
約1.0 |
浅鉢状 |
3 |
〃 |
約 4.0 |
約4.5 |
約1.5 |
約1.5 |
約0.5〜0.8 |
皿上 |
4 |
〃 |
約6.5 |
約9.5 |
約2.5 |
約4.0 |
約0.8〜1.0 |
浅鉢状 |
5 |
〃 |
約6.5 |
約6.5 |
約2.5 |
約2.8 |
約0.8 |
皿状 |
6 |
〃 |
約7.0 |
約6.5 |
約3.0 |
約3.5 |
約1.0 |
浅鉢状 |
7 |
〃 |
約4.0 |
約3.5 |
約2.0 |
約2.0 |
約0.5〜0.8 |
皿状 |
8 |
松井B支群 |
約6.5 |
約5.5 |
不明 |
不明 |
不明 |
不明 |
9 |
〃 |
約5.3 |
約5.7 |
約1.0 |
不明 |
約0.8 |
浅鉢状 |
10 |
〃 |
約8.0 |
約7.0 |
約2.4 |
約2.3 |
約1.2 |
〃 |
11 |
〃 |
約6.7 |
約6.4 |
不明 |
約2.0 |
約1.2 |
〃 |
12 |
〃 |
約7.7 |
約7.5 |
約2.4 |
不明 |
約0.9〜1.3 |
〃 |
13 |
〃 |
約7.5 |
約7.5 |
不明 |
不明 |
不明 |
皿状 |
(北村栄造「氷室七景―京都市西賀茂の栗栖野氷室―」1997年一部加筆)
|
グループ名 |
上部径(m) |
底部径(m) |
深さ |
1 |
西賀茂群 |
6.8〜6.0 |
3.5〜2.8 |
2.6 |
2 |
〃 |
6.5〜6.0 |
3.0 |
2.2 |
3 |
〃 |
7.5〜6.5 |
3.0 |
2.0 |
〔付記〕
これら氷室状大型穴の発見の経緯や情報入手、及び踏査・略側・分布図作成にあたりご支援・協力頂いた方々については以下の如くである。
○天理市福住町池ノ内群…1992年、桜井市教育委員会清水真一氏、並びに天理市教育委員会松本洋明氏より発見情報を頂いた。
○同 奉書谷群…1993年、同町在住元氷室神社宮司故森本藤雄氏が発見され案内して頂いた。
○同 尾広群…1993年、同町在住岡田忠弘氏が発見され案内して頂いた。
○同 小野味群…1993年、故森本藤雄氏より示唆を受け、岡田忠弘氏に調査を依頼しておいた。岡田氏は同町在住山下博昭氏のご協力を得て、かつ独自に本群 5遺構を発見され案内して頂いた。
(踏査・略測・分布図作成にあたり、岡田忠弘氏、同町在住吉田幸男氏、中西圭二氏、前田忠男氏、山下博昭氏、及び香芝市教育委員会山下隆次氏、奈良市在住小川朗氏、宇治市在住石橋忠昭氏、京都市在住杉山秀司氏のご支援・協力を仰いだ。)
○山辺郡都祁村藺生群(2〜5)…1999年、同村在住倉西格氏が発見され案内して頂いた。
(踏査・略側・分布図作成にあたり、倉西格氏、同村在住吉井正継氏、故森田弘氏、天理市福住町在住岡田忠弘氏のご支援・協力を仰いだ。)
○宇陀郡菟田野町松井群…1997年、滋賀県立大学教授菅谷文則氏、当時シルクロード学研研究センター所属中井一夫氏の教示を受け、宇陀郡大宇陀町在住井岡和雄氏の協力を得てA支群を踏査した。
○B支群は天理市福住町在住岡田忠弘氏が発見され案内して頂いた。
(踏査・略側・分布図作成にあたり、岡田忠弘氏、井岡和雄氏のご支援・協力を仰いだ。)
〔謝辞〕
拙稿を纏めるにあたり、まずは論文指導を賜り、学恩を蒙った岡崎晋明先生に対し心底より御礼を申し上げます。さらに、多大なご指導・援助を賜り、いろいろ便宜を図って頂いた方々に対し末尾ながら記して感謝の意を表します。 (順不同・敬称略)
井上 薫、故森本藤雄、小泉俊夫、菅谷文則、和田 萃、中井一夫、清水真一、山下隆次、中山 晋、今尾文昭、林部 均、清水康二、松本洋明、植松宏益、坂元義種、松倉文比古、土屋和三、杉本 宏、西山良平、相馬秀廣、田中欣治、大宮守人、大宮守友、山上 豊、 渡辺晃宏、高橋和広、北田栄造、塩沢一平、浦西 勉、和泉薫、奥田裕之、森本仙介、 屋木英雄、錦吉見、桑野貢三、中島満、阿左美哲男、吉新昌夫、細島雅代、岡田忠弘、吉田幸男、中西圭二、前田忠男、山下博昭、榊勉、植嶋煕、植村勝弥、東森正 太、 浦井善史、村上博美、米田政夫、東内弘、片岡博、倉西格、吉井正継、故森田弘、井岡和雄、山崎剛一、坂上健一、小川朗、石橋忠昭、杉山秀司 |
註
1 奥野高広 「主水司領の研究」,『国史学』第47・8号,55〜57頁,1944年。
2 大西源一 「氷室考」,『芸林』第12巻第1号,2〜36頁,1961年。
3 滝川政次郎 「香落・都祁紀行(下)」,『史迹と美術』449号,362〜360頁,1974年。
4 井上薫 「都祁の氷池と氷室」,『ヒストリア』85号,1〜30頁,1979年。
5 高橋和弘 「古代日本の氷室制度について―特に奈良時代における氷室制の再検討―」,『山形大学史学論集』第12号,11〜35頁,1992年 。
6 田中欣治「氷室」,『講座考古地理学』第5巻,19〜22頁,藤岡謙二郎編,学生社,1989年。
7 中山晋「古代日本の「氷室」の実体―栃木県下の例を中心として―」,『立正史学』第79号,43〜68頁,1996年。
8 井上薫,前掲4、3・4頁。
9 井上薫,前掲4、15・16頁。
10 川村和正「天理市福住町の氷室状大型穴踏査レポート」,『かしこうけん友史』第3号,31〜34頁1996年。
11 並河永校訂『大和志』,331頁,臨川書店,1987年。「都介氷室在山田村(現天理市山田町)、隣村福住有氷室神祠」。
12 井上薫,前掲4、16〜18頁。
13 氷室神社宮座は、丹生田座、宮中座、殿座の3座があり、古来、氷室神奉祀や氷室経営にかかわる伝承を持っている(森本藤雄『氷室神社史料』 ,165〜166頁,氷室神社,1986年)。座の伝承からは丹生田座が最も往古からの氷室関係者で、氷室祭祇や経営に携わってきたことを伺わせる。池ノ内 ・奉書谷・尾広群が分布する一帯は入田・丹生田と称せられた地域である。丹生田座は入田地区の家系で構成されている。また、小野味地区も入田の分村と伝えられ、丹生田座に加入している家が多い。このことから、入田・小野味地域が氷室に何らかの形で関わったことを示していると思われる (川村和正前掲10、33〜34頁)。
14 井上薫,前掲4、18頁。
15 川村和正「都祁村藺生の氷室状型穴の発見」,『冷凍』第75巻第872号,59〜63頁,2000年。
16 植松宏益「ゼニヤクボ遺跡第5・6次発掘調査」,『平成5年度奈良県内市町村埋蔵文化財発掘調査報告会資料』,66〜69頁,奈良県内市町村埋蔵文化財技術担当者連絡協議会 ,1994年。植松宏益「ゼニヤクボ遺跡第7次発掘調査」,『平成6年度奈良県内市町村埋蔵文化財発掘調査報告会資料』,63〜65頁,奈良県内市町村埋蔵文化財技術担当者連絡協議会 ,1995年 。
17 清水康二「都郁村吐山トノニシ遺跡」,『奈良県発掘調査概報1991年度』,7・8頁,奈良県立橿原考古学研究所,1992年。
18 潜水康二,前掲17。
19 中山晋,前掲7。
20 池田末則他校注『大和名所記』奈良県史料第一巻,402頁,奈良県史料刊行会,1977年。
21 並河永校訂,前掲11,230頁。
22 『奈良県宇陀郡史料』,6・12・17・50頁,奈良県宇陀郡役所,1917年。
23 伊達宗泰「古代氷室跡」,『新訂大宇陀町史』,55〜57頁,大宇陀町史編集委員会,1992年。
24 竹村俊則「北山氷室紀行」,『史迹と美術』235号,259〜263頁,1953年。
25 北田栄造 『京都市の文化財―京都市指定・登録文化財』第12集,26〜28頁,京都市文化観光局文化部,1994年。北田栄造 「氷室七景―京都市西賀茂の栗栖野氷室」 ,『古代文化』第48巻第3号,46〜52頁,1996年。
26 屋木英雄 「鵜原氷室と鵜原寺―京都西賀茂氷室地区の氷室跡と寺院跡―」,『京都考古』第91号,147〜159頁,2003年。
27 高田十郎 「大和の「生駒氷」」,『大和志』第9巻第4号,115〜120頁,1942年。
28 細島雅代 「阿左美家の天然氷」,『全日空機内誌 翼の王国』324,60〜67頁,1996年。
29 『実隆公記』巻5ノ上,174頁,永正6年(1509)3月11日条,続群書類従完成会,1980年,「(前略)氷室氷朔日以前可消之躰也、山木伐 儘之間、日影漏来之故也(後略)」、同176頁永正6年(1509)3月14日条「(前略)氷室事山木悉切取之間、氷至四月一日不可有之歟、剰為郡代所行一夜切落山水入之間(後略)」 。
30 相馬秀廣 「氷室雑感」,『奈良に関する文化地域学的研究 平成5年度奈良女子大学教育研究学内特別経費報告書』,9〜12頁,奈良女子大学,1993年。
31 『続日本紀』和銅4年(711)には閏6月丙午条(『国史大系続日本紀前篇』,45頁,吉川弘文館,1997年)があるので、本木簡の閏月、閏 6月は和銅4年と言える。
32 『平城宮木簡3 解説』73頁,奈良国立文化財研究所,1981年。
33 井上薫氏は福住町の氷室成立時期を都祁山之道開設以降と推定される(前掲4,18頁)。しかし、都祁氷室木簡は和銅4年(711)夏季に 都祁から長屋王家へ頻繁に進氷しているので、霊亀元年(715)の都祁山之道開設以前に直通ルートが存在したことが窺える。池ノ内群等氷室状大型穴の残る福住町西端部は 都祁地域の中でも平城京に最も近い位置にあるので、井上説を奈良時代初頭に遡らせることが可能と考える。
34 滝川政次郎,前掲3,370頁。
35 井上薫「貝那木の氷池と福住の氷室」,『奈良県観光』第279号,2頁,奈良県観光新聞社,1980年。
36 『大和志』が都介氷室を山田村に比定する(前掲11)根拠は不明であるが、「山田村文禄検地帳写」に「ヒムロ」字名が記されるので(『改訂天理市史』史料編弟4巻 ,453頁,天理市史編さん委員会,1979年)、山田町も 都祁氷室の一部が設けられていた可能性があると言える。
37 『新訂増補国史大系 朝野群載』,220〜222頁,吉川弘文館,1938年。
38 『大日本古記録 民経記』,4,62頁,岩波書店,1985年。
39 『増補史料大成 康富記』1,405〜406頁,臨川書店,1965年。
40 『実隆公記』巻5ノ下,405頁,続群書類従完成会,1980年。
引用史料
5.古代氷室史料と都祁村地域の各種氷室遺構との関係検討
(1)『紀』仁徳天皇62年闘鶏氷室説話:『新訂増補国史大系日本書紀前篇』,314頁,吉川弘文館,1977年。
(2)養老令:『新訂増補 国史大系令集解第一』,135頁,吉川弘文館,1977年。
(3)平城京出土の氷室関係木簡
@長屋王家出土都祁氷室木簡:『平城宮発掘調査出土木簡概報21―長屋王家木簡1―』,12頁,奈良国立文化財研究所,1989年(一部訂正…『平城 宮発掘調査出土木簡概報25―長屋王家木簡3―』,26頁,奈良国立文化財研究所1992年、及び『平城京木簡2』,40頁,奈良国立文化財研究所,2001年。
A主水司関係木簡:『平城宮木簡3解説』,73頁,奈良国立文化財研究所,1981年。
(4)『日本紀略』天長8年(831)8月20日条:『新訂増補国史大系日本紀略前篇下』,332頁,吉川弘文館,1965年。
(5)主水司式氷室関係条文:@氷池の祭祇,A氷馬役,B氷室雑用料
『新訂増補国史大系延喜式後篇』,896頁〜901頁,吉川弘文館,1977年。
図面 引用文献
図1 天理市福住町氷室状大型穴分布図:川村和正「天理市福住町の氷室状大型穴踏査レポート」『かしこうけん友史』第3号,31頁,1996年 ,一部加筆 。
図2 室山A支群実測図:井上薫「都祁の氷池と氷室」『ヒストリア』85号,17頁,1970年、一部加筆。
図3 都祁村各種氷室遺構分布図:自作
図4 藺生群氷室状大型穴分布図:川村和正「都祁村藺生の氷室状型穴の発見」『冷凍』第75巻,第872号,60頁,2000年,一部改編。
図5 ゼニヤクボ群氷室遺構植松宏益「ゼニヤクボ遺跡第5.6次発掘調査」,『平成5年度奈良県内市町村埋蔵文化財発掘調査報告会資料』,69頁 ,奈良県内市町村埋蔵文化財技術担当者連絡協議会,1994年。植松宏益「ゼニヤクボ遺跡第7次発掘調査」『平成6年度奈良県内市町村埋蔵文化財発掘調査報告会資料』,65頁 ,奈良県内市町村埋蔵文化財技術担当者連絡協議会,1995年。
図6 トノニシ遺跡氷室遺構:清水康二「都郁村吐山トノニシ遺跡」『奈良県発掘調査概報1991年度』,8頁,奈良県立橿原考古学研究所,1992年 ,一部改編 。
図7 栃木県内の円形有段遺構集成図:中山晋「古代日本の「氷室」の実体―栃木県下の例を中心として―」『立正史学』第79号,53頁,1996年 ,上横田A遺跡SKO1・SK02遺構図,改編転載。
図8 菟田野町町松井氷室状大型穴分布図:自作。
図9 京都市西賀茂町氷室関係史跡分布図:自作。
図10 西賀茂群氷室状大型穴実測図:北田栄造『京都市の文化財―京都市指定・登録文化財―』第12集,28頁,京都市文化観光局文化部,1994年 ,一部改編。
表 引用文献
表1 天理市福住町氷室状大型穴一覧表:川村和正「天理市福住町の氷室状大型穴踏査レポート」,『かしこうけん友史』第3号,32頁,1996年 ,一部改編。
表2 都祁村各種氷室遺構一覧表:川村和正「都祁村藺生の氷室状型穴の発見」『冷凍』第75巻,第872号,61頁,2000年,一部改編 。
表3 菟田野町松井氷室状大型穴一覧表:自作。
表4 西賀茂群氷室状大型穴一覧表:北田栄造「氷室七景―京都市西賀茂の栗栖野氷室」,『古代文化』第48巻第3号,48頁,1996年,一部加筆
。
copyright 2006〜2010,Kazumasa Kawamura,all right reserved
本ページは 川村和正氏及び掲載誌発行人の許可を得て掲載しているものであり、本稿に含む文章テキスト、図表の転載・引用等については著作権者である川村和正氏の許可を受けない限り禁止します。本ページのリンクについてもご一報下さることをお願いたします。
copyright 2002〜2010,manabook-m.nakajima