まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 008

金沢の氷室と雪氷利用


竹井 巖 *

掲載誌: 北陸大学紀要、第28号(2004)pp.49〜62

"Himuro"in Kanazawa and usage of the snow and ice stored.

Iwao Takei

Received October 29,2004
Abstract
 

copyright 2006,Iwao Takei,all right reserved

本ページは 竹井巖氏及び掲載誌発行人の許可を得て掲載しているものであり、本稿に含む文章テキスト、図表の転載・引用等については著作権者である竹井巖氏の許可を受けない限り禁止します。本ページのリンクについてもご一報下さることをお願いたします。 

*北陸大学薬学部 Faculty of Pharmaceutical Science

 

はじめに

  慶応3年(1867)8月に英国の外交官アーネスト・サトウが、陸路、七尾から金沢を通って大坂に向かった記録が「一外交官が見た明治維新」に残されている1)。加賀藩の役人に案内されながら、森本と橋場の間の「金沢の白い城壁が松林の上からのぞいているのが見え出し」てから金沢の「町が見える所まで来ると」街道から「手近な一軒の家」に案内され、そこで果物とともに「町の裏山から取って来た凍雪」などを振る舞われている。おそらく大樋町付近の茶屋での話と思われるが、幕末の金沢における夏場の接待の場に、飲食用の雪が用いられていたことがうかがわれる。サトウは七尾に来る前に船で新潟に寄港しており、そこでも「当時の日本で氷の代用をつとめていた凍雪」を見ている。また、天保6年(1837)から天保13(1842)年にかけて出版され、越後塩沢付近の雪国の変わった暮らしや風習を紹介して江戸で大評判になった「北越雪譜」にも、夏場に山陰の残雪を飲食用に提供する茶店や塩沢の雪売りの話がでてくる2)。金沢では、文化5年(1808)6月朔日の氷室の日に、町人も祝いの雪氷をやり取りしていたという(「鶴村日記」3))。

  このように、江戸時代後期に北陸地方では夏場の雪氷の利用が、量的にはともかくとして一般的に行われていた。その後、明治・大正・昭和初期の時代に日本では、夏場に雪氷の利用が交通の発達や人々の生活習慣の変化にともなって爆発的に行われるようになる。しかし、この天然の雪氷の利用は、機械式製氷技術の発達や電気冷蔵庫の家庭への普及に従って、顧みられることもなくなっていく。近年、湯涌温泉で観光用の氷室が復元されたり、北陸の雪氷利用に関する調査研究が氷室・雪室に関連していくつか行われている4-6)が、歴史の闇の中に埋没しつつあるのが現状である。

  この小論では、金沢における雪氷利用の変遷を、旧暦六月朔日の氷室の日との関係から論考する。特に、金沢城にあったとされる氷室の実態や、簡単な実験とともに加賀藩が氷室の日に将軍家に献上したという雪氷の輸送の問題を考察する。

金沢の氷室

金沢城玉泉院丸の氷室
  金沢城では、藩政期の第五代藩主綱紀(松雲)候の時(元禄6年(1693))に、玉泉院丸に氷室が設けられたことが分かっている。加賀藩の公文書の整理を明治時代に依頼された森田平次の「金沢古蹟志」7)によると、この氷室は、二間四間の大きさの穴蔵で、戸室石を用いてつくられ

図1 藩政期における金沢城「玉泉院丸絵図」8)の氷室の位置と現在の県立体育館周辺配置図。Dは北島俊郎「金沢の氷室」4)の番号づけによる尾山神社南側氷室跡。

たとされる。図1に示すように、金沢城の南西端で、現在の県立体育館の玄関先付近に、東西に長軸を持つ形で位置していたことが絵図で確認できる8)。しかし、この氷室の実際の構造については明らかではない。用途としては、冬季に清浄な雪を木箱に詰めて、氷室の穴蔵に納め、木箱の周りに雪を詰めて、旧暦六月朔日の氷室の日にとり出し、藩主の召し上がる氷として用いたとされる。この氷室の雪詰めや管理は、露地(庭)担当の手木足軽があたっている。氷室に隣接する建物には、手木足軽の詰め所があったことが、絵図8)から確認できる。

兼六園の氷室跡

  金沢城関連の氷室として、兼六園の氷室跡と伝えられるものもある。藩政期に兼六園の山崎山の山背に土窖を作り毎年冬季に白雪を貯えて翌年の六月朔日の氷室の祝いに氷を侍臣に賜うなどの事があった、という記載が明治27年(1894)の「兼六公園誌」にある9)。藩政期の文書には確認できないのであるが、この記述以降の兼六公園の詳細図10)(明治37年(1904))やその後の兼六園案内図、金沢公園唱歌11)(51、52番、明治41年(1908))などに、兼六園南東隅の池が氷室跡として記載されるようになる。現在は、氷室跡として兼六園の東南隅の15m×30mの 池のそばの空き地に看板が立ててある。この池が氷室として使用されたことについては、藩政期の絵図等の検証から、否定的な見方もある。

加賀藩江戸上屋敷の氷室
  藩政期の加賀藩の氷室では、また、江戸の本郷上屋敷において心字池の東北岸に氷室が設けられていたことが知られている(江戸御上屋敷絵図(清水文庫)12)、1840年代前半)。前田家に仕えていた古老の話として、この氷室は、「徳川幕府に氷を献上」するために「冬の間に金沢から氷を運んで貯蔵して置」 く目的で作られたとある(「冷凍」13)大正15年(1926))。この古老によれば、徳川幕府に氷を加賀藩から献上したのは、三代藩主利常の時代から十四代将軍徳川家茂の時代までで、最初は 「献氷の際には金沢から江戸まで長持ちに木の葉や笹をもって氷を詰め足軽が担いで運んだ」が後には、上述のように「冬の間に」運ぶようになった。そのための江戸屋敷の氷室であるとのことである。加賀藩の公式文書で確認できない話なので、この氷室に関わる古老の話はどこまで信ぴょう性があるかは不明である。

近代金沢の氷室
  金沢では、旧暦六月朔日(新暦7月1日)を氷室の日として謡曲の催しを楽しんだり、氷室まんじゅうを贈答したりする風習があるが、大正期には「氷々、雪の氷、白山氷」14)と称

図2 金沢における氷室の位置図。Gは金沢城玉泉院丸の氷室、Kは兼六園の伝氷室跡、@〜Nは北島俊郎「金沢の氷室」4)の番号づけによる近代金沢旧市街地の氷室を示す。

図3 金沢における氷室の大きさの比較。データおよび番号は北島俊郎「金沢の氷室」4)による。

して笹の葉に包んだ雪氷を氷室の日に売り歩いていたという。「これは医王山あたりで冬に雪を穴蔵に突き入れて蓄蔵したものを切り出して」14)きた雪氷であるという。したがって、医王山麓周辺には、雪を貯蔵する施設としての穴蔵がいくつか設けられていたことになる。医王山麓の湯涌温泉では、観光協会が中心となって昭和62年に湯涌温泉の玉泉湖岸に氷室が復元され、その後平成16年からは湯涌温泉薬師堂境内に新たに氷室が復元されて、雪詰めや氷室開きの行事が行われている。

  このような医王山麓の貯雪施設については、その実態が必ずしも明確にされていないが、金沢市旧市街地に大正昭和期に設けられた氷室については、北島俊朗氏によって行われた聞き取り調査の報告「金沢の氷室」4)(1982)である程度知ることができる。この調査で示された氷室(図2)は、二つの特徴があり、一つは小立野丘陵上に数多 く設置されていたことと、もう一つは巨大な敷地に巨大な穴を設け多人数の人夫で雪詰めしている事である。たとえば、明治31年から昭和20年にかけて設置された@小立野 2丁目十全病院前およびA橋爪菓子店北側の氷室は、雪穴の上部の大きさが170坪であり底面で80坪(8間×10間、15m×18m)深さが実に5.4mもあり(図3)、農閑期の田上集落の人を 150人から300人ほど臨時に雇って雪入れをしたという。熱力学的な考察を待つまでもなく、貯雪量が増加すれば、消費時期の夏場までに残存する量が増加することは当然のことであり、またその膨大な雪氷の供給に見合うだけの需要がその時代に存在したことになる。

金沢の氷室と雪氷利用

  上述したような金沢における貯雪施設としての氷室が営まれたということであれば、その雪氷利用の需要とはいったいなんであったのだろうか。

藩政時代の氷室と雪氷利用
  藩政時代の雪氷利用については、貞享元年(1684)六月朔日に「御吉例のお祝いの氷」二荷が倉谷四ケ村(倉谷、二又、日尾、見定)より城に納められたことが「改作所舊記」15)に編纂された文書に記載されている。このとき肝煎や人足など 10人が石川門から入って二の丸の御台所に朝早く氷を届けており、後に手間賃として計四貫文が支払われている。六月朔日の氷室の祝いの氷を倉谷から納めていたことについて、元禄 15年(1702)改作奉行からの問い合わせに対して倉谷四ケ村の肝煎が経緯を上申している。それによると、倉谷四ケ村の者が陣屋の杣役を勤めたことから天正12年(1584)に前田利家から諸役御免の書き付けをもらった。そこで、そのころからお礼として六月朔日に氷を献上するようになった。五代藩主の綱紀が入国してからは、元禄 5年(1692)まで献上している。金沢城の玉泉院丸に氷室ができた元禄6年からは氷を納めなくなったが、城内の氷室に雪が残らなかった元禄11年には命じられて氷一荷を納めている。元禄 13年には二荷を納めているが、元禄14年に運んだ氷の融けるトラブルもあったようである。倉谷四ケ村の上申した由来を信じるならば、金沢城における雪氷利用は天正12年(1584)まで遡ることができることになる。もちろんこの元禄期 (1700年前後)の上申書は、他にも二通りの解釈ができ、ひとつはその時期に雪氷献上の歴史をもっともらしく捏造した可能性があることで、もう一つは、新しい領主として金沢に入った前田利家に六月朔日の祝い氷として地元の山間部から献上されているならば、その時にはじめて確立された風習とは考えにくく、さらに雪氷利用が時代を遡る可能性である。元禄 16年にさらに尋ねられて上申している内容では、天正12年の六月朔日の氷献上について、当時その日が祝いの氷を献上する日だとされていたと読める記載になっている。そうであれば、それ以前の佐久間盛政や尾山御坊時代の権力への氷献上の歴史があった可能性も示していることになる。今後の研究に待ちたい。

  金沢の場合は保存雪であるが、このような六月朔日に用いる氷は、祝いの儀式の道具立てとして用いられている。六月朔日の氷の献上を考えるとき、一つは延喜式に記載されている主水司が宮中への夏場の氷を提供するために近畿五県に設けた官営氷室の歴史が関連していると考えられる。もう一つは、徳川幕府が六月朔日を氷室の日として催しをしたという、氷を介した江戸時代の封建制文化の側面である。少々長くなるが、金沢の氷室の位置づけを考察するために、日本の古代から近世における氷室と氷の利用の歴史について振り返ることにする。

  よく知られているように、日本書紀の仁徳天皇六十二年の条に額田大中彦皇子が狩の途中に都祁氷室の存在を知って天皇にその氷を献上したというエピソードが記載されており、それ以降天皇家で夏場の氷を用いるようになったとされる16)。日本の氷室の歴史が日本書紀に記されているような仁徳天皇の時代(5世紀)に遡れるかどうかは不明である。しかし、仁徳天皇は5世紀において現在の南京に都を置いた宋に盛んに使節を派遣した倭の五王の一人に比定されることがある。「宋書」によると孝武帝大明 6年(462)に凌室(氷室)を設置して氷を貯蔵させ、春分の日以降に儀式や飲食、喪葬用に用いたとある17)。近年までたくさんの氷庫(氷室)が営まれてきた朝鮮半島でも、新羅が智證麻立千6年(503)にはじめて役人に命じて氷を保存させたことが記されている (「三国史記」18)巻第四の新羅本紀第四)。中国では古くから氷室の運営や氷の利用は行われていた19-20)ようだが、日中朝鮮半島の交流の頻度を考えると、5世紀ごろ日本に氷室の文化が伝わって来たことは一つの可能性としてあり得そうに思われる。日本書紀は710年に成立するが、奈良平城京の長屋王屋敷跡から出土した木簡に701年に相当する年とともに都祁氷室の氷が運び込まれていることが記されていた20)。延喜式(927)には、近畿地方の五ケ国に官営の氷室が21室設けられ、氷利用の期間や量が皇族の身分等によって規定されている21)。その用途は明記されていないが、飲食用と喪葬用および儀式用に用いられたらしい。清少納言の「枕草子」の四十二段には「削り氷にあまづら入れて」とあるように、甘味料を加えたかき氷の描写がでてくる。古代の夏場の氷は貴重なものであったと思われるが、東大寺の役人が市場で氷の購入をしていた(天平宝字4年(760))ようでもあるので、民営の氷室も存在したものと考えられる (井上薫「都祁の氷池と氷室」)19)。確かなことは、奈良時代や平安時代には氷室が存在し、夏場の氷利用が行われていたことである。しかし、その後、鎌倉時代や室町時代、戦国時代へと時代が下ると、官営氷室の運営自体が困難となり、15世紀には宮中への進氷の機会は四月一日と六月一日あたりに限定されてほそぼそとした営みになってくる(「康富記」22)川村和正氏私信)。

  中世後半の中央での混乱は、夏場の氷利用をかなり制限するようになるが、江戸時代初期の徳川家康が征夷大将軍に任官した時期以降、後述するように徳川家康関連の記録23-25)に六月朔日の祝いや献氷、賜氷の記載が見られるようになる(川村氏私信)。この旧暦六月朔日の氷の儀式は、氷室の節句とか氷室の日という形で江戸時代の年中行事になっていくわけであるが(「東都歳時記」天保 9年(1838))26)、宮中での六月朔日の行事との関連は明確ではない。「孝徳天皇の御代(六百五十年)朝廷で陰暦六月一日に群臣に氷を賜ったことも太政官符に記載されている」と成島嘉一郎著「天然氷」27)(昭和 48年)にあるが、典拠不明である。しかし、「慶長日件録」23)という舟橋秀賢が書いた日記の慶長 11年(1606)六月一日の記事に「戊戌、斎了、伏見へ行、巳刻、前大樹御対面、従濃州伊吹山、氷令進上、於御前各賜之、今朝禁中へ御進上云々」とあり、著者(舟橋)が伏見城の前大樹(徳川家康)に挨拶に出向いた折り、濃州の伊吹山産の氷の献上があり、御前で氷を頒賜されるとともに、家康から御所へ献上されていたと読める(川村氏私信)。「徳川実記」24)や「駿府政事録」25)には徳川家康が六月朔日を特別の日として賀し、慶長17年から 19年にはこの日駿府に出仕した群臣に富士の氷を配ったことが記載されている。このことから、江戸時代初期には、六月朔日がめでたい日であるという特別な日に意識され、また氷の頒賜や献上が行われる儀式としての雪氷利用が行われる日として認識されていたと考えられる。江戸時代の幕藩体制の確立とともに六月朔日が氷室の節句とか氷室の日といった特別な日として位置づけられ、各藩の氷餅の将軍への献上や徳川家と姻戚関係を持つようになる加賀藩前田家の雪氷献上につながっていったものと思われる。このようにみると、金沢における氷室の日は江戸幕府との関係で特別な日であり、そこで祝いの氷として用いられる雪氷は、儀式の上での象徴的な意味をもっていたものと考えられる。藩政時代の金沢では、夏場の雪氷はあまり実用的なものとは意識されていなかったのかも知れない。

近代金沢の氷室と雪利用
  一方、江戸時代末の凍雪の利用から伺えるように、金沢を含めた北陸地方では、残雪を利用することはささやかにでも一般に行われていたと考えられる。北陸では、ちょっとした工夫で夏場まで雪を保存することは容易であるので、需要さえあれば大量の雪氷の供給も可能とする潜在的能力を持っていると言える。

  社会機構の変わった明治時代には、交通の発達に伴い物資や人の交流が盛んになり、西洋文化の流入も加わり、氷の利用が東京や大阪での都市部で盛んになる。主に医療面や冷蔵需要でアメリカのボストン氷が輸入されるようになると、日本各地で天然氷の供給が試みられるようになる。中川嘉兵衛の函館氷が商業的に成功すると、さまざまな用途で氷の需要が爆発的に拡大していく20)

  金沢を含めた北陸地方では、天然氷の生産はできないが、そのかわりに冬季間の積雪を保存し、それを夏季の利用に供する試みが行われるようになる。たとえば富山県の黒部では平野部に巨大な雪山を築いて、夏場の鮮魚輸送の冷蔵材として雪を利用している5)。金沢では、図2に示されているように小立野台地上に多くの巨大な氷室が営まれたが、この用途は主に小立野丘陵上に位置する陸軍病院(国立病院)や金沢医科大学病院の医療用需要に対するものであった(北島「金沢の氷室」)4)。また、寺町台や尾山神社周辺、八坂神社境内の氷室は、隣接する茶屋街や生鮮市場の飲食冷蔵用需要に対するものであったと考えられる。このような近代金沢の氷室は、冬季間の農閑期の雇用を生み出していたわけだが、昭和期の戦時体制下での労働力の調達困難や衛生面での飲食用途への規制、機械式氷の導入や家庭用の電気冷蔵庫の普及など、時代の変化に伴ってその役割を終えることになる4、6)

金沢の氷室の謎

  ここで、金沢の氷室に関わる事柄の中でいくつかの疑問点を論考する。

@雪室なのになぜ氷室と称するのか

  金沢では、金沢城玉泉院丸の氷室や明治期以降の旧市街地丘陵上に多くの氷室が営まれたが、この「氷室」と称しているものは冬季間の雪を貯蔵した穴蔵である。北陸の他の地域では、雪室や雪穴、雪山、雪しかなどと呼称されることが多く、「氷室」と呼称するのは金沢周辺に限られるようである。氷室といえば、日本書紀や延喜式の官営氷室のごとく冬の天然氷を氷池から切り出して保存する施設のことをいうのが一般的である。なぜ雪の貯蔵施設を金沢では「氷室」 と称するのであろうか。

  奈良時代や平安時代には氷室が存在し、宮廷における夏場の氷利用が行われていたことは確かであるが、鎌倉時代や室町時代、戦国時代へと時代が下ると、官営氷室の運営 自体が困難となり、15世紀には近畿地方の氷室は宮中への進氷の機会が限定されて、ほそぼそとした営みになってくる22)。しかし、江戸時代には六月朔日は、徳川幕府が幕藩体制の中で氷を介した祝いの日として位置づけ、氷室の日とか氷室の節句として庶民を含めた年中行事になった26)ことはすでに述べた。六月朔日が、民俗学的考察や地域史において言及がなされているように、暑い時期の節目として歯固めやイリガシ盆などの祝いの日と一般に位置づけられていたことも大きく関係していると考えられる14、28-29)。上述したように、金沢城玉泉院丸の氷室は元禄6年に設けられたとされる。江戸時代に将軍家へ加賀藩から氷の献上がなされたとか、藩主が雪氷を召し上がるなどと広く喧伝されたとすると、金沢の一般の人々にとって六月朔日は「氷室」という言葉とともに特別に意識された日であったであろうし、金沢では六月朔日の氷室の日と雪を強く結びつけることになったと思われる。すなわち、金沢の氷室のルーツが藩政時代にあるとすると、その貯蔵雪の用途が氷室の日に儀式用の素材として扱われたため、雪を貯蔵しているにもかかわらずその穴蔵を「氷室」と呼称するようになった、と考えるのが上述の疑問に対するひとつの解釈となろう。

A金沢から江戸に雪を運んで献上したのか

  金沢から江戸に雪を運んで、加賀藩から将軍家に献上したとされる。このことは、加賀藩の公式文書には現れてこないため、その実態は明確ではない。随筆家の井上雪による「金沢の風習」30)(昭和 53年(1978))には、老舗のご主人の話として「むかし天然氷は筵と笹の葉で幾重にも包んで、二重の桐の長持ちに納め、八人の剛力脚夫によって昼夜走り続け、四日間百二十里の道を江戸藩邸まで送り届けられた」とあるが、郷土史家の日置兼による「加能郷土 辞彙」31)(昭和17年(1942))にも、「藩政の時六月朔日を氷室の朔日といひ、江戸邸から氷を将軍に献上した、この氷は、金沢に於いて貯蔵したものを二重の桐長持に容れ、八枚肩の脚夫によって江戸に急送したのである。藩侯も亦氷を喫し、近臣にも之を賜与した。」と同様な表現が見られる。しかしそれ以前の文献には、上述の前田家の古老の聞き書き13)(大正 15年(1926))以外に有力な言及が見当たらない。藩の公式文書を明治期に整理した森田平次の「金沢古蹟誌」7)(明治 24年(1891)頃の著作)には、将軍家への氷献上や輸送の関連をうかがわせる記載はない。「改作所舊記」15)の倉谷四ケ村の献氷記事は貞享・元禄年間 (1700年前後)に集中しているが、そこには六月朔日の朝早く運び込んだとか、城内の氷室の氷が残らなかったので急きょ持ってくるように命じられたり、手間取って融けてしまったとかの、金沢城での雪氷利用に限定されているとしか思えない記述になっており、将軍家献上に関する雪氷輸送やそのための利用の痕跡は認められない。

  では、加賀藩の将軍家への献上や雪の輸送の話は確認できないのかといえば、そうではない。天保9年の「東都歳時記」26)には、六月朔日として「氷室御祝儀 (賜氷の節)加州候御藩邸に氷室ありて今日氷献上あり。」と記載されている。このことは当時(すくなくとも1800年代)江戸では評判の行事であったようで、見物人が氷献上の道に鈴なりになったとか、川柳などにも詠まれている。明治 25年(1892)の「定本江戸城大奥」32)には江戸城に勤めていた人たちへの聞き書きが記録されており、「加州家より氷室の献上あり。女中一同へ分け下さる。此の献上物始めお広敷に着して、ここにて荷を解きほどき、御前には器に入れて差し出すが故に、荷造りは如何にして其の氷の解けぬ様構へしやを知らず。また氷とは申せ、是は雪塊にて、土中に埋め置きし物なればにや、土芥などの打ち雑りて頗る清からず。されば御台所はお手を付けず分け下さるなり。」とある。ここに記載された出来事が何年のことかは不明だが、江戸には無いはずの雪が運ばれて来ていたことは明確に確認できる。

  ここで、将軍家に献上されたのが雪で、しかも土芥が混ざり込んだ雪であるという点について考察を加える。受け取った将軍家にとっては、「清から」ぬ雪では、いくらなんでも口に供する飲食用には使うことをためらったであろう。しかし、北陸に降る雪は、多かれ少なかれ、融けるときには雪の表面が黒ずんでくることから分かるように、小さな固形物質(浮遊塵)が含まれている。特に季節風が強い春先には、黄砂現象で細かな大陸の砂が降ってくることは北陸に住む人間の体験するところである。そしてこの黄砂現象に関連していると思われる赤い雪が降ったという記録が、藩政期に認められる。たとえば、「加賀藩史料」33)第 5編の寶永6年(1709)正月に「金澤に紅雪を降らす、[前田家雑録] 一、寶永五年十二月より翌年正月四日・五日に至、金澤深雪、其内紅雪交り降事二・三寸、御城下も如 斯。又同正月廿八日、紅雪交り一・二寸降也」、又、「鶴村日記」3)の文化 7年(1810)1月18日に「晴天、午後俄に荒天となり黄赤色々雪降る事三分斗夫より或晴又ハ降る夕暮迄天色黄也」とある。さて、金沢では氷室の日には氷の祝いをするとともに謡曲や能の催しが行われていた。謡曲の演目の一つに「氷室」があり、その内容は氷室のいわれを神の化身の翁が語るのであるが、その中に「それ仙家には紫雪紅雪とて薬の雪あり」34)との文言がある。歴代加賀藩主は屋敷に能舞台をしつらえ、能のことに詳しかったはずなので、赤い雪が降ったと聞けば、仙薬を連想し、その雪を氷室に保管して六月朔日に将軍家に献上したとしてもおかしくはないと考えられる。もしそうであったとすれば、残念なことに迷惑がられて終わったということになる。

  雪氷の輸送については、簡単な氷の融解実験を行ったので、その結果をもとに考察する。写真は、加賀市の中谷宇吉郎雪の科学館の屋上入口前で、2004年8月7日に

写真 氷の融解実験風景(2004年8月7日、加賀市の仲谷宇吉郎の科学館入り口前)。右から@日射裸氷、A日射木綿タオル巻氷、B日陰裸氷、C日陰木綿タオル巻氷、D日陰保冷箱内に木綿タオル巻 氷の順で設置した。

図4 氷の融解実験の経過時間―残存量のグラフ。日陰気温は31℃。

各4kgの市販氷5個を用いて融解状態を時間とともに調べた時の様子である。各氷は木製テーブルの上に3cm角の角材二本の上に載せて置いてある。日射にさらされる状態の試料が2個と、アルミ箔を貼った段ボールで日射を遮った状態の試料が3個である。気温は日陰で31℃程度であった。日射にさらされる氷試料は、@裸氷とA白い木綿タオルを巻き付けた氷である。日射を遮った氷試料は、B裸氷とC白い木綿タオルを巻いた氷、およびD保冷箱(2cm厚発砲スチロール)に納めた木綿タオルを巻いた氷である。

  図4に示された氷試料の残存重量変化を見ると、@の日射 下の裸氷が2時間半で消失している。Bの日陰での裸氷がその次に減少著しく、日射下でもAのタオルを巻いた氷の減少は意外に少なかった。CやDは、巻いたタオルや断熱材が、融解の程度を低減する ことを示している。一般に氷の融解は、外部からの熱エネルギーの流入により生じ、放射、対流、伝導の三つが主要な熱伝達の要因になる。上述の結果から、氷の融解を強く促進している一番の要因は、対流による暖かい空気の供給と接触した空気との熱伝導であるといえる。その次の要因として日射が挙げられるが、寄与の度合いは対流ほどには大きくない。なお、タオルが巻いてあると0℃の融解水が氷表面に滞留するためか、暖かい空気に接したときの熱伝達が気化熱等の熱の消費によって制限されるようである。簡単な計算によれば、60kgの雪(表面積1.5m2)を20cm厚さの断熱材(熱伝導率0.1W/mK)の箱に入れて外気温が30℃とした時、5日間で約半分の30kgが融けることになる。もちろん、気化熱を有効に使えば、もっと融ける量を抑えることができる。したがって 、雪氷は適切な断熱密封容器に保管して熱の流入や空気の対流を制限し、融解水が氷体表面付近に滞留するようにして融解水の気化熱による奪熱効果を効率的に利用するような工夫をすれば 、夏場でもかなり融解を押さえることが可能であるという結論になる。藩政時代に金沢から江戸まで雪氷を運んだのかという疑問に立ち返ると、量を十分確保した雪氷をむしろや木の葉のような保水性のよい材料で包んで 「二重の桐長持ち」30-31)のような断熱性のよい容器に入れて運べば、夏場でも江戸まで搬送することは可能であると思われる。

  金沢から江戸への夏場の雪氷の輸送は十分ありえたことだといえる。しかし、前田家の古老の話13)にあるように、実際に輸送したとしても、「大変ご苦労なこと」であるので、さまざまな事情から毎年繰り返して行うほどのものではなかったろうし、気温の低い冬季に江戸の藩邸の氷室に搬入したほうが、合理的であることは言うまでも無い。冬季に金沢から江戸に運ぶことにしても、経路を考えれば、なにも雪の多い地域を通って金沢から雪を運ぶようなことをしたであろうか。運ぶのであれば 、途中の豪雪地域や山中から雪を調達した方が合理的であったと思われる。ここで注目したいのは、分家である上州七日市藩の前田家の存在である。金沢と江戸を結ぶ下街道に隣接する位置にあり、加賀前田本家とのさまざまな関係から雪の輸送に関与できたものと考えられる。今後の研究課題として関心がもたれる。


B兼六園の氷室跡は本当に氷室があったのか

  兼六園南東隅の山崎山の南東側に「氷室跡池」があり、藩政期にこの場所に(氷室の)窖が設けられたとされている。しかし、その根拠としては、明治27年(1894)の 「兼六公園誌」9)に記載された言及があるだけで、藩政期の文書等にそれに関する言及は確認されていない。兼六園管理事務所長を長く担当された下郷稔氏の「兼六園歳時記」35)(平成5年(1993))には、「兼六園の氷室跡は明治以降から、昭和の半ばにかけて庶民の氷室として使われたために、現在のような表示となった」と推測され、藩政期に氷室として営まれたかどうかは、今後の解明の努力が必要であろうとされている。

  実際に藩政期の絵図36-38)の変遷をみると、この池は、位置や形から、竹沢御殿ができる時期に敷地に取り込まれた、金沢城の外惣構堀の遺構と考えられる。山崎山に生えている樹木が四百年を経ている巨大なものもあることなどから、山崎山自体が外惣横堀の土塁を流用した築山であると思われる。下郷氏も指摘されているようにこの氷室跡池の位置は、兼六園が形作られていく1830年代にも「谷」37)と記載されているばかりで 、氷室として使用された痕跡はうかがわれない。また、玉泉院丸の氷室の大きさが二間四間(3.6m×7.2m)程度であることを考えると、巨大すぎる(絵図では50mプール程度の規模)ように思われる。田中 喜男「城下町金沢[改訂版]―封建制下の都市計画と町人社会」39)(昭和58年(1983))によると、江戸時代初期には外惣構堀などの金沢城の堀の管理は厳格を極め、雪の排雪さえも制限されたが、時代が下ると除雪された雪はすべて城内の堀や惣構堀・用水・河川に捨てられるようになったという。小立野台上の外惣構堀が竹沢御殿の敷地に取り込まれて孤立した池になったとき、その池を雪捨て場のように使っているうちに、夏場まで残った雪を氷室の日の雪氷として用いたこともあって氷室と呼ぶこともあったのだろうか。普通,雪の貯蔵施設には適切な排水機能が求められるものであるが、この池の底部にはそのような施

図5 天保15年(1844)頃「兼六園図」40)の山崎山付近の部分を模写トレースした図。山崎山の南側埋立地に三間四方程度の構造物がある。

設が設けられているのであろうか。また、兼六園の山崎山の南側は、当然に日当たりが良好な場所になるので、雪を貯蔵する氷室の適地とは言いにくい。このことは玉泉院丸の氷室にも言えることで 、たとえば氷は陰の気があるので日当たりのよい場所に設置するといった、なにか陰陽五行説のような思想的背景があったのであろうか。疑問は尽きない。

  ところで、興味深い絵図40)(兼六園図、金沢市立玉川図書館蔵、天保15年(1844)ごろ)がある。兼六園が形作られる過程で竹沢御殿が破却されるのであるが、この兼六園の巨大な霞ヶ池がつくられた頃の絵図に、山崎山の南側の池と辰巳用水導入路に挟まれた場所に四角形の構造物が記載されている(図 5、関連部分の模写トレース図を示す)。池を山崎山側に6分の1程度埋め立てた場所につくった、大きさとしては三間四方程度の構造物で階段らしきものもうかがわれる。単なるあずま屋なのかもしれないが、氷室の可能性もあるので今後の検証を待ちたい。

まとめ

  金沢の氷室が雪を保存しながら「氷室」と称されることに関しては、徳川将軍家と加賀前田家との特殊な関係における氷室の日の儀式用の素材として使われる雪氷であるため、その雪を保存する施設が氷室と呼び習わされたものと考えられる。このことは、北陸地方の他の地域の雪貯蔵施設が雪室、雪穴、雪山、雪しかなどと呼び習わされ、「氷室」と呼ばれないことから、金沢近辺だけの特殊性である。

  金沢における雪氷利用は、前田利家が金沢に入城した安土桃山時代の1584年まで遡れる可能性がある。その場合には、それ以前の佐久間盛政の金沢支配や尾山御坊の時代の氷利用の可能性も否定できない。藩政時代の雪氷利用は、氷室の日の祝いの素材としての雪氷、すなわち儀式としての雪氷の用途が主であった。しかし、江戸時代後期には夏場の飲食用の用途も散見されるようになる。明治以降の夏場の雪氷利用は、生活様式の変化や交通の発達により種々の用途が現れ、爆発的な需要が生じている。そのため、雪を貯蔵した氷室の規模は 、藩政期金沢城に設置されたものに比べて,巨大なものとなり、その旺盛な需要に応えていく。金沢における明治以降の雪氷利用は、陸軍病院や医科大病院による医療・研究用といった官需と、料亭の飲食用・冷蔵用や鮮魚店の冷蔵用といった民需が主なものであった。このような金沢の近代の雪利用は 、天然氷と異なり、雪が衛生上不利な混在物を避け得ないため法令上の規制の対象となりやすく、また、機械式製氷の導入や電気式家庭用冷蔵庫の普及などの時代の変化で衰微を余儀なくされた。石川県では雪氷を貯蔵する氷室は、飲食冷蔵用途と思われる山代温泉や加賀市街地北部、医療用途の松任、漁港での鮮魚類の冷蔵用途の七尾周辺などにも営まれたとされるが、徐々にその詳細は分からなくなっている。

  金沢から江戸に将軍家への献上のために雪氷が運ばれたかどうかについては、藩の公式文書で確認できないことではあるが、明治以降のいくつかの聞き書きからは、江戸に無いはずの雪が届けられていることや、伝えられる二重構造の桐長持ちなどで断熱に配慮すれば可能なことなので、十分ありえた話である。また、江戸藩邸の氷室の存在は冬季間の雪の搬入の可能性を示唆し、金沢と江戸を結ぶ経路上に位置する前田家の分家の上州七日市藩の存在も、一定の役割を果たした可能性がある。今後の研究が待たれる。
 

 

謝 辞


  近畿地方中世の氷室や徳川家康関連の六月朔日行事に関する多くの文献資料を教示いただいた、龍谷大学大学院史学研究科の川村和正氏には深く感謝の意を表します。また、氷の融解実験について便宜を図っていただいた加賀市の中谷宇吉郎雪の科学館(神田健三館長)に感謝いたします。

 


参考文献

 

1)アーネスト・サトウ、岩波文庫「一外交官の見た明治維新(下)」坂田精一訳、岩波書店、第31刷(1985),p.20.

2)鈴木牧之編撰,岩波文庫「北越雪譜」岡田武松校訂,岩波書店,第46刷(1993),p.201.

3)「鶴村日記」石川県図書館協会発行,北国書籍印刷,昭和51年.

4)北島俊郎,「金沢の氷室」,加越民俗研究,vol.11,p.72-81(1982).

5)長井真隆,「黒部市金谷の雪山について」,富山市科学文化センター研究報告第6号,pp.85-91,(1984).

6)池上佳芳里,「北陸地方における雪室の分布とその盛衰」,地理科学,vol.54,no.2,pp.126-137,(1999).

7)森田平次著,「金沢古蹟志」日置謙校訂,歴史図書社,昭和51年,pp.222-223(「玉泉院丸氷室 此の氷室は,舊藩中は藩侯の召上がらるゝ氷雪を貯ふる室にて,玉泉院丸の築山の麓に,二間に四間の穴蔵を造り,戸室石にて積み立てたり。右氷室は手木足軽の主附にて,毎歳厳冬の頃清潔なる積雪を箱詰めになし,此の室に納め,夥多の雪を集め箱の廻りを詰め置き,六月朔日に取り出し指し上ぐる例なりと云ふ。右氷室は, 舊藩五世参議綱紀卿の時命ぜられたる處にて,其の以前は加州石川郡倉谷より進獻すといへり。」)。

8)「玉泉院丸絵図」金沢市立玉川図書館蔵,78cmx103cm。

9)小川孜成,「兼六公園誌」明治27年(1894),p.28(「紅葉山 一ニ山崎山ト云。(略)又此山背二土窖ヲ作り。毎歳冬季二白雪ヲ貯へ。翌年六月朔日二氷室ノ慶トテ。氷ヲ侍臣二賜フナトノ事アリシモ。 其迹陳セリ。」)。

10)和田文次郎編「新版金澤明覧折込図」北光社,明治37年(1904):「最新實用金澤市衢細図」.

11)「特別名勝兼六園[資料編]その歴史と文化」,橋本確文堂,(1997):金澤公園唱歌(金澤公園の歌)明治四十一年六月発行,(「51 丘を後に廃る窖 百萬石の頃ほひは 氷をここに貯へて 年の六月朔日に 52 侍臣に頒ち賜ひたり つめたき氷もあつ情け 藩主の恵みいかばかり 臣下は心を暖めけん」)。

12)「江戸御上屋敷絵図」金沢市立玉川図書館蔵,清水文庫,1840年代前半。

13)天野米作「日本における製氷の歴史に就て」,冷凍,Vol.1(2),大正15年(1926),pp.25-26(「(略)彼の百萬石の大名加賀前田候が毎年六月一日に徳川幕府へ氷を 獻上した事蹟であります。前田家に仕へて居た古老の話に依ると徳川幕府への獻氷は寛永年間前田三代の主利常公に初まり徳川十四代家茂公頃迄年々行はれたと云ふことであります。金澤城内二の丸に二間四方の穴蔵が造られ冬季當番の足軽(手木足軽)が毎日雪を其穴蔵に詰め込み貯蔵したもので 獻氷の際には金澤から江戸迄の長い道中を長持ちの中に木の葉や笹を以て氷を詰め足軽が擔て運んだとのことであります。今から思へば随分御苦労なことであります。後には今の本郷帝大敷地内(元前田候敷地)に氷室を造り冬の間に金澤から氷を運んで貯蔵して置き 獻上するようになったと云ふことであります。獻上された氷は一寸四方角五六寸の長さに切られて大奥の者共に分配されたさうであるが暑い時に氷は非常に珍重がられて皆喜で食べたと云ふ事であります。」)。

14)今村充夫,「加賀能登の年中行事」,北国出版社,昭和52年,p.256.

15)「改作所舊記(上)」石川県図書館協会,昭和14年,(pp.48-49「貞享元年(略)六月朔日為御吉例,御祝之氷二荷倉谷四ケ村より上がる。但,四ケ村肝煎四人・人足四人 ,劍・吉野手代半兵衛・吉右衛門,石川御門より札なしに二ノ丸御臺所迄上之申候。明六つに上り五つに歸申候。指出も御入も不被遣候。(略)」,pp.207-208「(元禄十一年)来朔日氷室御祝御用之氷 ,近年者御露地に氷室被仰付置候得共,今年者無之に付,俄之儀に御座候へ共,各様迄可申進旨,只今御廣式御番頭衆より申来候。則別紙相調進候條,右之通相違無之様可被仰渡候。以上。五月廿八日柿崎彌市右衛門  長瀬湍兵衛殿 永原權丞殿 右之通申来候間,先年之通相認氷一荷,来朔日朝六時御廣式迄特参仕候様可申渡候。尤少も油断仕間敷候。以上。 長瀬湍兵衛 永原權丞 劍村又七  吉野村甚七 當六月朔日倉谷村より氷上候付,肝煎并右持参人二三人召連,明後廿四日拙共子役所迄可罷出候。以上。(略)」,pp.282-283(略),pp.303-304「氷室為御祝倉谷四ケ村より六月朔日氷上 申儀,就御尋申上候。一,倉谷四ケ村之儀者,御陣屋之杣役相動申候。河北郡高坂村之儀者,大鋸役相勤候に付,為御褒美天正十二年五月より諸役御免之御判之物,高徳院様より頂戴仕 申候。右為冥加其頃より六月朔日氷上申候。微妙院様より寛永十三年十一月右御同事之御判之物被為下。両度之御本紙者高坂村に御座候。私共手前に者冩所持仕候に付,上之申候。氷の儀者 ,御代々打續指上申候。微妙院様小松に御隠居被為遊候ひ而者,於金澤重丸様・萬吉様に指上申候。當御代者御入国より元禄五年迄指上申候。但,御留守之時分者上不由候得共,其以後御留守に而も御下臺所へ指上申候。御留守に上初申年号覚不 申候。右先規承傳申通并近年迄,書上申候。以上。 元禄十五年十二月九日(以下略)」,pp.307 「元禄十六年倉谷四ケ村より氷上げ来候に付,御祝と唱来候儀,何御代何方より 申来候儀之旨御尋に御座候。氷上げ始め申年号者,大納言様御代天正十二年五月十日に,諸役御免之御印頂戴仕候に付,為御礼同年六月朔日氷指上申候處,何之儀に而氷献上仕候哉と御尋御座候故 ,今日之御祝に指上申旨御請仕,夫より毎年上げ来候申承傳申候。御祝と申儀,何方より被仰渡候と申儀者傳不申候。只今所に而御祝之氷と者不申候得共,金澤へ特参仕指上申時分 ,御祝之氷指上申と申なれ候。先規之儀慥成紙而等有之候哉と御尋御座候得共,書物者所持不仕候。以上。元禄十六年正月六日(略)」。

16)日本古典文学大系「日本書紀上」岩波書店,昭和42年,pp.413-415.

17)梁沈約撰「宋書」第二冊巻十四,志第五禮二,中華書局刊,p.411.

18)東洋文庫372「三国史記1」金富軾(井上秀雄訳注),平凡社,(1986)初版第3刷,p.97.

19)井上薫,「都祁の氷池と氷室」,大阪歴史学会ヒストリア,85巻,(1979),pp.1-30.

20)田口哲也,「氷の文化史」冷凍食品新聞社,(1994).

21)「延喜式」新訂増補国史大系,吉川弘文館,昭和49年,pp.896-903.

22)「増補史料大成康富記1-4」臨川書店,(1965).

23)正宗敦夫編纂「日本古典全集 慶長日件録」日本古典全集刊行会,(1939)(慶長11年(1606)六月朔日,「戊戌,斎了,伏見へ行,巳刻,前大樹御対面,従濃州伊吹山 ,氷令進上,於御前各賜之,今朝禁中へ御進上云々」)。

24)「新訂増補 徳川実記第一篇」吉川弘文館,(1998),pp.587-588,624,665(「慶長十九年(1614)六月朔日当賀例のごとし。駿城にては出仕の群臣に富士の氷を給う。」)。

25)「駿府政事録」安永六年(1777)写本,龍谷大学図書館蔵,慶長十七年―十九年の六月朔日の条(「慶長十九年(1614)甲寅 巻之四 六月朔日 壬午 辰半刻出御諸士各御前富士 冰被下。」)。

26)東洋文庫177「東都歳時記2」朝倉治彦校注,平凡社,(1987)初版7刷,p.74.

27)成島嘉一郎,「天然氷」(私家版),昭和48年。

28)下出積與,県史シリーズ17「石川県の歴史」,山川出版,昭和45年。

29)「金沢市史」資料編14民俗,金沢市史編纂委員会,平成13年,pp.310-312.

30)井上雪,「金沢の風習」北国出版,昭和53年,p.131.

31)日置兼,改訂増補「加能郷土辞彙」:(初出昭和17年)北国新聞社,昭和54年,p.748.

32)永島今四郎/編「定本江戸城大奥」:(朝野新聞,明治25年(1892))人物往来社,(1968),p.50.

33)「加賀藩史料」第五編,清文堂出版,昭和7年,pp.916-917.

34)謡曲「氷室」(伊藤正義校注「新潮日本古典集成第79回謡曲集」新潮社,(1991),p.139-147.

35)下郷稔,「兼六園歳時記」能登印刷出版部,平成5年(1993),p.38.

36)「竹沢御殿御引移前総囲絵図」金沢市立玉川図書館蔵,文政5年(1822),150cm×120cm。

37)「竹沢御殿,兼六園并御鎮守古絵図」金沢市立玉川図書館蔵,天保10年(1839)。

38)「金府大絵図」金沢市立玉川図書館蔵,天保14年(1843)頃,81cm×96cm。

39)田中喜男,「城下町金沢[改訂版]―封建制下の都市計画と町人社会」,弘詢社,昭和58年,pp.25-26.

40)「兼六園図」金沢市立玉川図書館蔵(大友奎堂蔵),天保15年(1844)頃,141cm×168cm。

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