味探検Notes-hinoyakata 大田蜀山人と日野宿について


八王子から日野をあるく

 八王子から日野に旧甲州街道伝いにあるいてくると、八王子の市街を抜けたあたりから道の両側に門構えの立派な住宅が建ち並んでいる。その昔は農家であったか、商家であったかは分からないが、いずれにしろ江戸時代以降広い土地を所有してきた家柄の人々が、そのよすがを現代に引き継いで住み続けているのであろう。

 日野駅を過ぎて、国道沿い右手に立派な門構えの屋敷が見えてくる。日野宿の脇本陣が置かれた名主、佐藤彦衛門の屋敷を、佐藤家より譲り受けた地元材木商が、そば店「日野館」として経営をしながら、その姿を現代に残している。日野館については、記事で紹介したとおりだが、この屋敷の歴史をたどると、江戸の狂歌師であり、幕府玉川普請勘定方役人であった大田蜀山人(直次郎)とそばの逸話にゆきつく。

 近世から近代にかけての「そば論」第1号を書いた、蜀山人のそば体験は、多摩川周辺での業務の合間や散策のなかで培われたものらしい。そのなかに、この佐藤彦衛門が打つそばの味にひかれ、なんどもこの佐藤家を訪ねている記録が残されている。

 『日野市史』別刊の『市史余話』(1990年、日野市史編さん委員会編)に、掲載されている文章がとても分かりやすく書かれているので、紹介しておこう。

 

蜀山人と日野のそば

「市史余話」15 蜀山人と日野のそば(谷春雄・記) より

 そばの文 そばは四季を通じて多くの人に好まれ、毎日、毎食でもというほどの人もいる。
 しかし、日野に住み、そば好き・そば通と自称している人でも、そばの由来などを書いた幕末以降の諸書に「日野のそば」が紹介されていることを知っている人は、意外に少ないようである。
 文化6年(1829)頃、江戸幕府の御家人大田直次郎は、玉川通普請掛り勘定方を勤めていた。この大田直次郎は幕府役人としてより、蜀山人・南畝・四方赤良(よものあから)などのペンネームで、狂歌師として世に知られていたことは、ご承知の方も多いと思われる。
 この蜀山人、役向きでの巡回のおり、たびたび日野本郷の名主彦右衛門方に立寄った。
 文化6年3月27日、玉川巡見のときも彦右衛門方に止宿した。彦右衛門は信州のそばを取り寄せ、これを石臼で引き、そばを打って馳走した。
 当時61歳の蜀山人は、そのそば粉の白さ、また、手打、味のみごとさを賞賛し、巡見中忙しいおりであったが、つぎに記す「そばの文」を書き残した。

 それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど、食料にあつる故に麦と名つくる事、加古川ならぬや本草綱目にみえたり、されば手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を烏麦といひ、そばきりを河漏麪といふ事もと河漏津の名物なりと片便の説をつたふ、詩経に爾を視る事*〔クサカンムリ+収=あおい〕のごとしといひ、白楽天が蕎花白如雪といへるはやがてみよ棒くらはせんといひし花の事なるべし、大坂の砂場そばはみせの広さのみにして、木曽の寝覚は醤油に事をかきたり、一谷のあつもりそばは熊谷のぶっかけに平山のひらじゐもおかし、大江戸のいにしへ元禄よりかみつかたは浅草にのみ見頓そばありて、むしそばのあたへ七文とききしが、今は本町一丁目駿河町にもまぢかくありて、御膳百文、二八〔注1〕、二六、船きり〔注2〕、らんぎり〔注3〕、いもきり、卓袱〔注4〕、大名けんどん〔注5〕はいざしらず、うば玉の夜そば風鈴にいたるまでいづれかみかとのたねにあらざる、其外高砂の翁そば、鎌倉河岸の東向菴、福山のそばは三階にのぼり、みの屋のそばは敷初ににぎほふ、洲崎のざるそば深川にきこえ、深大寺のそばは近在に名高し、浅草のまきやそばも大川橋の玄関構にしかず、正直そばの味ひも四国町の名家にくらべばいかんともいふべからず、池のはたの無極菴に周茂叔が蓮をながめ、日ぐらしのとねり屋に若殿の駒をつなぐ、その駒の名に思ひ出す瓢箪屋の麹町念仏そばのかぢばし道光菴も、称住院の制札に蕎麦門内に入る事をゆるさず、小石川のそば切いなりもむかしとなりて、茗荷屋の茗荷とともにわすれはてぬ、ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山〔注6〕といふべし
  そばのこのから天竺はいざしらず
           これ日のもとの日野の本郷

                      たちかかりて
                   蜀山人
                       いそがはしく書
〔注7〕

まぼろしのそば この「そばの文」はそばの語源、そばの歴史、諸国のそばの紹介、江戸のそば屋の盛衰など、大田蜀山人の博識に驚かされるとともに、そばに関する貴重な史料として『古事の糸府志』『救民名物誌』『そば考』など諸書に紹介され、また原典として引用されている。
 それ以来、蜀山人は日野を訪れるたびに彦右衛門にそばを所望したと伝えられ、右の文の他にも左記のような狂歌も残している。
  いかにして 粉をひこ右衛門ふるいては 日野の手打もこまかなるそば
 この日野のそばは彦右衛門が打ち、蜀山人が賞味したもので、旅人や村人の口には人らなかった「まぼろしのそば」とも言える。

 (注1)二八=二八そば(にはちそば)。小麦粉2・そば粉8の割合で作ったそばで、二八、一六文のそばともいう。
 (注2)船きり=そばのまだゆでないものを槽(ふね)に並べたもの
 (注3)らんぎり=卵を加えて作ったそば
 (注4)卓袱(しっぽく)=そばの上に野菜などをのせて煮た料理
 (注5)大名けんどん=上等な器に盛ったそば
 (注6)彦右衛門は大柄な人たったので、横綱にたとえている。
 (注7)佐藤君子家所蔵史料 (軸装)より引用。「玉川砂利」(『大田南畝全集 第九巻』岩波書店)には「己巳の弥生廿八日のあした」の記述があり、細部の記述も若干異る。(谷春雄 1979.2.15) ――全文転載――

 

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