真名真魚字典

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和名・一次名称・俗称別引用文献・参考文献引用文中の古書名注引用文中の人名注

編者凡例【箋注倭名類聚抄】抄訳魚字尽成立関連年表

 

引用文中の人名注

――五十音順に、引用文中の 中国(漢籍)・日本(和書)の著者・編者や事項人名についてとくに注記が必要な難読名、同一人物の別称(号や字)などについてあげてみました。MANA(中島)による整理にあたっては、『和漢三才図会 7』平凡社・東洋文庫471(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注)の「書名注」(429ページ〜)、『本朝食鑑 4』平凡社・東洋文庫378(島田勇雄訳注)の「解説 食物儀礼史における「魚類」」(379ページ〜)、『世界大博物図鑑 2[魚類]』平凡社・荒俣宏著の「索引」から「博物学関係書名」(475ページ〜)、「博物学関係人名」(483ページ〜)、『広辞苑』、『漢語林』、及びネットの 関連サイト(図書館・私設文庫のデータベース及び電子ライブラリー)を活用させていただいた。適宜増補していきます。

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嶧山君(えきざん・くん)→丹波頼理(たんば・よりただ)

郝懿行(かくいこう:1757〜1825):中国:嘉慶四年(179 9)の進士、官は戸部主事に至った。寡黙で学者肌の人物であり、官僚としては出世しなかったが、小学(伝統的言語学)の方面で業績が大きく、『爾雅義疏』はことに有名である。『山海経箋疏』は畢[汁(十→元)]の『新校正』を土台とし、さらに多くの古典を、周到に吟味した上で引き、空想による臆説や、奇をてらった説は見られず、『山海経』の古典的注釈の最高峰といえる(この項「中国学工具書提要」より)。

郭璞(かくはく:276〜324):中国:字は景純(けいじゅん)。晉時代の天文卜筮(ぼくぜい)家。現在の山西省の聞喜(ぶんき)に生れた人。「博学にして経術を好み、郭公について五行・天文・卜筮を学び、元帝に優遇されて、著作佐郎になったが、彼のために殺される。その年四十九歳であった。」(『山海経』平凡社ライブラリー。著者・高馬三良解説より。179p)。著作に「洞林」があり、爾雅、方言、三蒼、山海経、穆天子伝など注をつける。また詩賦に長じ、「江賦」「南都賦」「遊仙詩」などがある。

 
ケイヘイ  

○邢[日/丙](けいへい:932〜1010):中国:宋代に活躍した学者。曹県(今の山東省)の人、字は叔明。考經、論語、爾雅、春秋公羊伝などのテキストを校訂、注釈した。「爾雅注疏」郭璞【註】にたいし、【疏】として補注を加えた。

狩谷エキ斎(かりや・えきさい):エキ=棭(木+夜)……〔生没年〕安永4(1775)〜天保6(1833)〔本姓〕高橋氏. 〔名〕真末、真秀、のち望之。〔字〕自直、のち卿雲。〔号〕棭斎、六漢老人、蟫翁(タン:虫+覃)、旧古楼、超花亭。〔通称〕津軽屋三右衛門。

左思(さし:250?〜305?)……字:太冲(たいちゅう)。晋の文人。現在の山東省中部の人。三都賦(さんとのふ)「蜀都賦」「呉都賦」「魏都賦」を著す。よく読まれ、筆写する人が多かったため都(西晋)の洛陽の紙の値段があがったということから「洛陽紙価」の言葉が生まれたという。

孫炎(そんえん)……『爾雅』を注釈した「爾雅孫炎注」(亡佚して伝わらない)としてしられる。 [隋志]{論語}尓雅七巻{孫炎注}。[旧志]{小学}爾雅六巻{孫炎注}。[新志]{小}爾雅孫炎注六巻。[現在目]爾雅三巻{孫氏注}。

戴震(たいしん:1723〜1777):清朝の考証学者。四庫全書の編纂者。段玉裁・王念孫・王引之(念孫の子)に考証学の流れが引き継がれる。ウィキペディア参照:A(【学研新漢和大字典】674p):安徽省休寧の人。字は東原。文字訓詁の研究から経書を解明したり、音韻学の面から、その体系化をはかったりした。「四庫全書」の編集に参加し、「水経注」や「大載礼記」を校定。著に「毛鄭詩考正」、「孟子字義疏証」「戴東原集」などがある。/B:四庫全書を編纂した戴震は幼い頃、知恵は遅く、10歳でようやく口が利けるようになり、40歳で挙人の資格を得た。進士の試験に6回失敗したが、その学問を高く評価され、特別に進士と同じ称号を授けられ、「四庫全書」の校訂を受け持つ纂修官に任命された。戴震の学問は哲学、言語学から自然科学に及ぶ幅広い内容を含むが、一つ一つが非常に精確で、また個性的である。戴震と史学家の章学誠ともに乾隆、嘉慶時代を代表すす2大学者といわれる。(「清朝の歴史」サイトhttp://lian22.hp.infoseek.co.jp/c-history/ching/setumei/jinbutu/jinbutu.shtmlより。):利用するテキストは(1)水経注:酈道元撰・戴震校「水経注」40巻:乾隆39(1774)年序、18冊、武英殿聚珍版(WKDB)、(2)酈道元撰・楊守敬纂疏・熊会貞参疏「水経注疏」40巻(京都大学人文科学研究所蔵、森鹿三氏寄贈稿本(写本?)全38冊:東方学デジタル図書館。

丹波頼理(たんば・よりただ):〔生没年〕明和4(1767)年2月9日 〜文政10(1827)年3月22日。「錦小路嶧山君」とは、ニシキコウジエキザン、本草家・医師であった錦小路(丹波)頼理(よりただ)の号。『本草薬名備考和訓鈔』(文化4・1807年刊。天保2年版が国文研マイクロフィルム所蔵検索にあり。)同書は、本草綱目の薬名をイロハ順に整理した『本草薬名備考』(著者不明)の改訂版。この書の記述を指しているものと見られる。「嶧山君曰」として、以下エキ齊は多くの引用をしている。なお、森鴎外「帝室博物館書目解題」(昭和48年岩波書店版「森鴎外全集」第二十巻所収)と併記され「帝室博物館蔵書人名抄」(同全集619ページ)に、「薬名備考」をあげ、「丹波頼理 :号嶧山、正三位修理大夫。文化丙寅{三年}冬上月序/山澄静安:紀府侍医、名延年。天保二年辛卯春三月」跋/「文化丁卯之歳開板行于世」」と載せている。 【箋注記載項】〔11〕鮪魚(▲)。〔13〕[乞]魚(▲)。〔23〕梳齒魚〔28〕鰧〔29〕[喿](鰺)。〔30〕鯖〔32〕鯆魚〔39〕[反]魚〔53〕[魚+頤−頁]〔56〕[厥](▲)。〔62〕[小]

陳蔵器(ちんぞうき):[中]唐の医家、『本草拾遺』 (739年ころ)を著す。

○陶隠居(とういんきょ)→陶弘景(とうこうけい)

陶弘景(とうこうけい):456〜536年。中国南北朝時代、梁の国の学者。神仙・陰陽・五行・医術に秀で、三忠に隠棲しながら、梁の武帝から信任をうける。「陶隠居」として知られる。著書に「神農本草経集注」がある。

錦小路頼理(にしきこうじ・よりただ)→丹波(たんば)

○裴駰(はいいん):【学研新漢和大字典】南北朝時代、宋の役人・文人。字は竜駒(リョウク)。著に「史記集解」(しきしっかい)がある。

深根輔仁(ふかね・すけひと):あるいは「深江輔仁(ふかえ・すけひと)」:〔生没年〕不詳。「本草和名」の著者。姓を「深根」、「深江」とし、あるいは「滋根」として伝えられる。狩谷エキ斎「箋注倭名類聚抄」に書きたる考証によれば、深根氏の本姓は、蜂田薬師(はちたのくすし)、世世医をもって朝廷に仕え、文主(ふみぬし)に至て仁明天皇の承和元年(834)に深根宿禰(ふかねすくね)の姓を賜り、その子孫に宗継(むねつぐ)があり、清和天皇の貞観9年(867)医博士に任じられ、内薬正(ないやくのかみ)、針博士(しんはかせ)を歴て、宇多天皇の仁和3年(887)に加賀介(かがのすけ)を兼ねていたが、輔仁は、実にその宗継の孫である。輔仁は醍醐天皇に仕えて、右衛門府の医官より侍医、権医博士に任ぜられ、延喜18年(918)に勅を奉じて「掌中要方」、「類聚府宣抄」を撰進した。「本草和名」もまた同字に勅を奉じて撰進したものであろうと云われる。廣世「薬經太素」がなってよりおよそ百年の後に出でた薬物書である。(日本古典全集「本草和名」同書解題より。)

楊守敬(ようしゅけい)(1839〜1914):【学研新漢和大字典】:清末の地理。金石の学者。字は惺吾、号は鄰蘇老人。湖北省宜都県の人。外交官として日本に4年間滞在して、日本に残存する漢籍も研究。「古逸叢書」などがある。……フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:欧陽詢の書風を受け継いだ能書家としても知られ、晩年は上海に寓居して、書を売って生計をたてた。著編:『歴代輿地図』、『水経注図』、『水経注疏』、『隋書地理誌考証』、『寰宇貞石図』、『日本訪書志』、『平碑記』、『平帖記』、『学書邇言』。……楊守敬は、エキ齊の『箋注倭名類聚抄』を高く評価し、また森立之らエキ齊の薫陶を受けた漢学、本草学、医学者らと交流を深め、渋江抽斎・森立志編『経籍訪古志』の価値をいち早く見抜き、日本より先に中国での刊行を実現させた。 :利用テキスト:酈道元撰・楊守敬纂疏・熊会貞参疏「水経注疏」40巻(京都大学人文科学研究所蔵、森鹿三氏寄贈稿本(写本?)全38冊:東方学デジタル図書館。【箋注記載項】(10)人魚

羅願(らがん)(1136〜1184):南宋・淳煕元年(1174)頃成立した「爾雅翼」の編著者。字は「端良」。

李善(りぜん)(〜689):唐の高宗のときの学者。「文選」に注を書き、文字の典故の解説に優れていた。【学研新漢和大字典】863p

 【広島大学中文HP「文選のページ」(http://home.hiroshima-u.ac.jp/cbn/wenxuan.htm)『文選』とは:3李善の注について】よりの引用:『文選』が編纂されたのは、普通七年(五二六)をそう下らない頃と言われる。しかしその後しばらく、『文選』が文人達の話題に上ることはなかった。『文選』が注目を集めるのは、隋の蕭該という人物が『文選音』という書を著してからである。蕭該は梁の武帝の弟、王恢の孫にあたる。つまり昭明太子からみれば、いとこの子ということになる。『文選音』は現存しないが、どうやらその内容は簡単な音注が付されただけのものであったらしい。しかしこの『文選音』の出現は、後の『文選』を研究したり、注釈を加えたりする学問、いわゆる文選学の濫觴として重要な意味を持っている。/ついで隋から唐に移るころ、江都の曹憲が『文選』を講じ、『文選』の学を盛んにした。その著『文選音義』も今は伝わらないが、やはり音注を中心にした注釈書であったと思われる。そして彼の門下からは、許淹、李善、公孫羅といった文選学者が輩出した。許淹と公孫羅の著は今に伝わらないが、李善の注は唐代に広く行われ、現在に至るも『文選』の最も基本的な注釈とされている。
 李善の注の最大の特徴は、彼自身が「諸引の文証、皆先を挙げて以て後を明らかにし、以て作者必ず祖述する所有るを示すなり。」と言うように、言葉の出典や用例を指摘することにある。ただ、正文を直接釈義することが少なかったため、「事を釈して意を忘る。」(『新唐書』伝)とも評された。確かに李善の注は、原典にさかのぼってその意味を正確に把握する必要があり、初学者などには難しいものであった。しかし、必ず根拠になる文献を挙げるという方法は、非常に客観的かつ確実な方法であり、典故表現を中心とする六朝文学が大半を占める『文選』所収の作品を解釈するには、極めて有用なものである。/李善の注が行われて『文選』はますます流行し、李善注以外にもいくつか『文選』の注釈が出現した。そのほとんどは現存しないが、唯一全体が伝わっているのが、五臣注である。五臣とは呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の五人である。五臣注は初学者にはわかりにくいという李善注の欠点を補うべく作られたが、粗雑な点も多く、しばしば批判の対象となっている。その結果として、逆に李善注の価値を高めている。

劉逵(りゅうき): 晋(280〜420)、済南の人。字は淵林。官は黄門爾郎・侍中。著に喪服要記がある。〔全上古三代秦漢三国六朝文、全晋文、一百五〕(【諸橋大漢和辞典】)。「文選」「劉逵注」(りゅうきちゅう)として「三都賦」「呉都賦」の注釈により知られる。

 

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