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雑魚古典テキスト抄訳 001

狩谷エキ齊

箋注倭名類聚抄

明治16年印刷局刊版・国会図書館蔵10巻本より

雑魚古典テキスト○目次TOP

和名・一次名称・俗称別引用文献・参考文献引用文中の古書名注引用文中の人名注編者凡例


凡例校例提要参訂諸本目録倭名類聚抄總目倭名類聚鈔序

巻第八その1(1-20)その2(21-40)その3(41-63)

 |||その4(64〜72)その5(73-115)その5-2(116-124)その6(125-212)||

狩谷エキ斎著『和名抄引書』||20 10年5月1日最終更新||

センチュウワミョウルイジュショウ…江戸時代に書かれた、倭妙類聚抄の注釈研究書として代表的な文献であり、狩谷棭斎(カリヤエキサイ:「エキ齊」と以下書きます)著。自ら漢学者であり、当代一流の考証学者によって知られたエキ齊畢生の大作。漢学、国学、医学、本草学 、易学など、当時のハイレベルな学者、研究者、思索家たちといった官民の幅広い人脈を通じての研究・考証の成果として、文政10・1827年・10巻本が完成した。刊行は、五十有余年の時を経て、エキ齊の薫陶を受けた最後の弟子・森立之(枳園)とその支援者の努力によって明治16・1883年内閣印刷局から刊行された。

 倭名類聚抄の伝本諸本をエキ齊自ら収集調査し、10巻本(京本)を源順著編原本系と結論付けた。そのうえで、自らが京都で発見した「京本」を箋注にあたっての定本とし、10巻本7種、20巻本4種を、比較考証し精緻な注解を施した。『古典索引叢刊1 狩谷エキ斎 箋注倭名類聚抄』(京都帝国大学文学部国語学国文学研究室編。昭和18・1943年。全国書房発行)によって、これまでは必要部分を読んできたが、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで 、印刷局刊行本のデジタル閲覧が可能になり、国会図書館蔵本から第1巻序文・凡例等、及び第8巻龍魚部を中心にテキスト化と現代語訳をこころみた。原文テキストは、該当標題の魚偏漢字字典(画数別)に記載しているので、適宜参照していただきたい。最終的には、動植物関係セクションについてこの作業を可能な限り進めてみたいと考えている。

現代語訳凡例 ◎原本名称については「倭名類聚抄」という印刷局刊行本の書名「箋注倭名類聚抄」及び本文でエキ齊が使用する名称に原則統一した。また、MANA注等の記載に関し、文献原著者により「倭」「和」「抄」「鈔」および「和名抄」等の略称を使いわけている場合は、出典を明記して原文どおりの記載をした。(1)原則新字体に直したが、固有名詞・人名書名等旧字体のままのほうが読解に都合よいと判断したものは旧字体或は俗字体のまま記した。(2) 「○」は エキ齊が和名抄原文と区分けをするため、箋注の始めに記した記号であり、「」は 、原文中に、稿本改行を示した記号であり、そのまま原文どおり記した。(3)JIS文字以外の表記不能字は、MANAによる組字のルールに従って[魚+斉]=セイ・サイ・タチウオのように適宜表記した。魚偏漢字の場合は、煩雑になるので、[斉]と 「魚+」を原則略した。 また、いわゆる、漢籍、和本原本から写した「異体字」は、原本表記字体を図像化し、真名真魚字典該当字項目で逐一明記し、元字の由来や和中等文献に残る用例を示し、勝手な思い込み、あるいは読み込みによる略紀表記や造字による表記は可能な限り排した。さらになお不祥な字形は、その旨明示して記した。(4){**}は 、原文双行表記の割注を示す。(5)箋注の文は改行されていないが、長文の場合には適宜改行した。(5)−2箋注本文中に、エキ齊解説をする前に前文との区切りをつける原文記載記号「」がついている (エキ齊原稿中に記載されているのか、森立之により刻本編集中に立之の手で書きくわえられたものか未確認のため、後日稿本調査により要確認。)が、カギカッコ表示と紛らわしいので、 現代語訳中、このシルシは「」(青太)あるいは「」(青太)で示した。(6)〔×○△〕は訳注者(中島)による〔注〕記。 箋注記事中の引用書名については『本草和名』のごとく二重カギカッコでくくり、撰篇著者名は、(深江)輔仁(著・編・撰)「和名本草」のように記した。訳注釈文中の書名は、昭和以降に復刻・翻刻・訳注刊行されている書については、発行者・発行巻数を明示して、「東洋文庫540(平凡社)『本草綱目啓蒙3 』」、「岩波文庫版『日本書紀(一)』」のように記した。(7)正確な訳を心がけたが浅学未熟無知のための誤りもあろうかとおもうが、あまり細かいところは気にせず、本文の記載内容の正確な理解を優先させて、大意をもとめて記述することに甘んじたことを了承願いたい。専門研究者らのご意見をうかがいつつ、適宜読み返しを行い、勉強を重ね、修正しつつ精度を高めたい。

○メモ……本書を読むようになったきっかけは、魚名呼称の多様な姿を研究し続けていくなかで、日本の無文字時代から伝わる魚貝水棲動物類のコトバと中国起源の漢字が日本に伝わってから使用されてきた魚偏や虫偏などの漢字表記の音と訓みと 文献に記載されたツヅリが、織り成しながら使い分けられてきた歴史を見つめなおしてみようというテーマができたことからである。魚貝水棲動物を表す漢字を拾い出し、その漢字の持つ意味と実際の用例を、日本の文字資料から抜き出し、整理をすることからはじめ、現在では、 従来全く視野に入っていなかった近世の往来物(俗字字書も含め)の刊本・写本として伝わる「魚字尽」(うおじづくし)の成立と展開を 考慮し、そこに画かれた表記も確認しながら、寺子屋の中で学ぶ語彙としての魚貝名称漢字の整理と魚字尽の分類にも活かせないかと試行錯誤している段階である。

○そして、何よりも、狩谷エキ斎が箋注した内容の、一字一句の検討と、漢籍・和古書原典引用箇所とエキ齊「按(う)」の棭斎自らが記した文章 や略記との区分け(「分かち」)を正確に行うことにつとめた。

○こうしたテーマをもち勉強を進めていくなかで、中世〜近世の、主に魚貝水棲動物を、それぞれの時代の人々はどのように理解をして、知識として蓄積し、 それぞれの実学 (専門ジャンル)に生かし、そして、またそうした動物昆虫たちを認識することによって培ってきたそれぞれの時代を生きてきた人々の自然観の変化についても、興味を持つようになった。

○明治維新以降、いわゆる「近代化」が進み、その近代化のゆくすえが現在になるのだが、1匹1匹、1尾1尾ずつの生き物を、人は、日本語の和名とその生き物の姿の特徴をとおして、認識し、識別していく。このときに、人は、会話のもととなる「ことば」と、筆写された「文字」や「絵」「イラスト」の「画像」などの情報(の束)によって伝達することとなる。そして、この伝えられ認識するときに、その対象が魚貝水生生物(陸上動物、昆虫たちも同じ)のばあい、人が考える動物である故に、ある「事件」がおきるのである。

○つまり、「実」と「虚」の混乱である。また、想像や創作による「架空生物」の誕生であり、その混乱を、むしろ楽しみの材料にしてしまう人と物や自然とのかかわりかたの妙なる錯綜する世界である。虚や不在や誤りを廃し、実と正を厳格に見極め 、知の体系化を試みるのが「科学」とすれば、自然界の、生きとし生けるものについての情報の伝達ぐらいやっかいなものはない。食や愛玩や自然の中での観察 や、愛や権威などを象徴させた文字表現という実践的な利用に生かしていくときの「知識」やいわば「情報」伝達のなかでも、特に漢字文化圏に眼を向けて、その伝達のしかたを考えていくとき、この 「ヤッカイ」さをクリアして、実と虚と、はたまた実虚混然となった情報の、こんがらがった綸糸 のほつれを解く作業が必要になると考えたのである。 あるいは、ときには、小さなほころびを縫い合わせたり編みこんで復元する作業となる場合もあろう。これまでの、こうした水生生物たちを、アナログ的にもデジタル的にも、いずれにおいても捉えなおし、ものに刻み遺されてきた歴史のかていにおいて、どこかに、ずたずたに引き裂いてしまう、愚をおかしてはこなかったのか、という、素直な反省心をもちながら、エキ齊の箋注する、あるいは、考証する姿勢に立ち向かってみたい、と、そんな気持ちがわいてきた、というところであろうか。

○これまで多くの人々によって魚類や貝類の博物学的本草学的な記述がなされてきたが、意外なことに、倭名類聚鈔の本文 (のそれも「和名」のヒトコト)に言及することはあっても、エキ齊の箋注をきちんと読み込んで、エキ齊が述べている内容を、解釈や論拠に生かす作業をした文献を眼にすることはほとんどないことがわかってきた。エキ齊が新説(仮説)として提示したことがら(おそらく有力な説)が、現代発行されている、語源辞典や一般辞書、専門の大型国語辞書にもほとんど採用されることがないのは、評価のうえの無視というよりは、おそらく未読によるものなの かもしれないと考えるようになった。それならば、自分なりに、すくなくとも、水生生物の和名を調査してきた基礎を生かして、全文を読みこなしてみれば、なにか、これまで見落としてきたものが、浮き出てくるかもしれない、と考えたのである。

○第八巻に限定しての精読をするといっても、倭名類聚鈔や古辞書の成立過程を解明しようと考えているわけでもなく(当たり前ですが)、ただ、箋注の内容を正確に理解することにわずかでも役立てられればということにすぎない。

○そうしていくことによって、近代以前よりまえの人々が目指してきた科学したり、文学したりしてきたことについて、新しい視点からの「再評価」も、またできるかもしれない。その情報伝達の対象物の中でも、昔の人々にとって、実を見る機会が限られてきた水生生物の世界にとっての実を伝えようとしてきた歴史にスポットをあててみることのひとつの迫り方として、エキ齊による箋注倭名類聚抄のなかでも水生生物の巻である第八巻を中心に、いろいろなことを考えて見る機会にしたい。 「和名抄」を考えるということより、エキ齊の、あるいはエキ齊が生き、次の世代に伝承したかったであろう、「箋注する」あるいは「考証する」という 、エキ齊にとっての「科学」する手法を理解し、エキ齊の、あるいはエキ齊とともに生きた同時代人たちの自然観や世界観に迫ってみようという試みとでもいえようか。

○一方で、生物をアナログ情報に変換するときの「和名」の体系(あるいは、学名の体系)ということからすれば、近代以降の生物学、魚類学、分類学等の発展によって、実在した、あるいは現生しているほとんどすべての生物の分類された体系が構築されていることも確かなことである。この体系にもとづき、生物の一種ずつの学名、及び英名や和名などが特定(確定)されているのであるが、これまでの思考や発想というのは、こうした現代の体系に基づく「知」を「正」なるものとして、過去の歴史上の人々が蓄積してきた情報の束のなかから、「誤れるもの」や「非なるもの」を弁別識別して、それを取り除いた正としての「知」の情報のみを、現代に生かそうという手法に躍起になってきたように感じられるのである。

○具体的には、「真魚真名字典」、及び「今様魚字尽」の各ページの各項目を参考にされたい(いずれもunder constructionです)。

早稲田大学古典籍データベース(略/WDB)中には、箋注における引用書目をエキ齊自らが整理した「和名抄引書」(エキ齊自筆の「箋注」執筆に使用したとおもわれる引用文献と項目分類)や、「エキ齊書入[和名類聚鈔]」が公開されており、適宜参考にさせていただいた。 中国古典籍や本草書等原本のうち、東京大学東洋文化研究所「全文影像資料庫(全文画像データベース)」(略/TDB)、京都大学東方學デジタル圖書館(略/KTDB)、京都大学電子図書館貴重書資料画像(略/KKDB)ほかを利用させていただいた。 そのほか当サイトで利用させていただいている、公開されているデータベース、原典画像の都府県別の所在については、「電子テキスト・DB一覧」に示しておいた。このような、「情報公開法」以降の国の研究機関、大学図書館、研究機関による、従来は閲覧すら手続きがたいへんであった貴重書文献のネット公開がすすんだことにより、研究機関に属さないMANAのような立場の一好事家でも、【箋注倭名類聚抄】 のエキ齊が箋注に使用した膨大な漢籍和書について逐一その原典 (エキ齊が見たものと同一書が理想だが、ソレが適わぬものも多いことが現実であるから、可能な限り、その版・写本と近い系統のものを)確認し、使用しながら、私のような立場のものでも、現代語訳、及び注釈が可能になったことは、実にうれしいことである。ネット利用による研究の幅を拡大させ、情報交換によるより多くの新しいジャンルのテーマの発掘に役立つことであろう。

○また、「和名抄」文中の引用書には、既に江戸時代までに亡佚した古典籍が多く含まれており、著者、書名、内容記述を確認し、略記から直す場合には、上記エキ齊自筆の「和名抄引書」および、『本邦残存典籍による輯佚資料集成』(新美寛編/鈴木隆一補。発行者:京都大学人文科学研究所。発行:昭和43・1968年 :略記「新美篇・輯佚資料」)、およびエキ齊が共著者となった『経籍訪古志』(「解題叢書」版、大正5・1916年刊)等を適宜参照したが、いまだ不明な部分も多く、誤りがあれば後日、専門研究者の教えを仰ぎ正したいと思う。ネットから、多くの原典をチェックすることができる時代になったことによって、これまで訳出文が全くなかったエキ齊箋注の一端を読み解き、江戸時代までの人々が知りえた水生生物の世界の理解に少しでも近づけることができれば、と思う。

(執筆・注釈・古典籍のテキスト化・編集:MANA―中島満)

和名・一次名称・俗称別引用文献・参考文献引用文中の古書名注引用文中の人名注編者凡例


凡例校例提要参訂諸本目録倭名類聚抄總目倭名類聚鈔序

巻第八その1(1-20)その2(21-40)その3(41-63)

目次

その1(1-20)(1)龍〔2〕[叫(口→虫)]龍〔3〕螭龍〔4〕蛟〔5〕魚〔6〕鯨鯢〔7〕[孚][布]〔8〕鰐〔9〕鮝魚〔10〕人魚〔11〕 鮪|〔12〕鰹魚|〔13〕[乞]魚〔14〕鮫〔15〕[宣]魚〔16〕鰩〔17〕鯛〔18〕尨魚〔19〕海[即]〔20〕王餘魚その2(21-40)〔21〕[唐]魚〔22〕[魚+椶−木]〔23〕梳齒魚〔24〕針魚〔25〕鱏魚〔26〕鱣魚〔27〕蝦〔28〕騰(馬→魚)〔29〕[喿]〔30〕[]〔31〕[番]魚〔32〕鯆魚〔33〕[夸]〔34〕鰯〔35〕鯔〔36〕[馬]〔37〕鱧魚〔38〕[制]魚|〔39〕[反]魚|〔40〕[侯][頤−頁]魚その3(41-63)〔41〕鰻[麗]魚〔42〕韶陽魚〔43〕[生]魚〔44〕鯉魚〔45〕鮒〔46〕[蚤]〔47〕[時]〔48〕鱸〔49〕[完]〔50〕鱒〔51〕[免]|〔〔52〕鯰〔53〕[頤−頁]〔54〕[庸]〔55〕[囘(巳→又)]魚〔56〕[厥]魚〔57〕鮎〔58〕[是]魚〔59〕鮠〔60〕[末]〔61〕[白]魚〔62〕[小]〔63〕細魚||その4(64〜72)(龍魚体)|

その5(73-115)(龜貝類)|その5-2(116-124)(龜貝体)|その6(125-212)(蟲豸部)〔125〕虫

狩谷エキ斎著『和名抄引書』|

 

 

箋注倭名類聚抄巻第1

 

○〔表紙扉(上記記載画像参照)〕 狩谷エキ齊著/箋注倭名類聚抄/印刷局蔵版

○〔第1巻表紙〕  箋注倭名類聚抄 一

○〔本文〕  箋注倭名類聚抄序

   源順、字は具[齊]といい、〔嵯峨天皇の子〕大納言定〔源定〕の曾孫であり、〔父は、源定の孫〕左馬允挙〔源挙みなもとのこぞる〕 の子である。和歌詩文の才に恵まれ、村上天皇天暦5年に勅撰後撰和歌集を奉じ、世に梨壷五歌仙と呼ばれた一人である。また、醍醐天皇第四公主、勤子内親王の命を請けて、〔天地の〕日月星辰から人倫、形態、飲食や器皿、調度、鳥獣蟲魚、草木の日用に触れる事物に至るまで集め、分類して、項目ごとに倭(和)字と漢字の名を明示し、その意味を記した倭名類聚抄10巻を著わした。その書によって、和漢の名の義を知ることができる。当時は、文物きわめて発達して、それぞれの専門名家が彬々と輩出したが、その学は専ら漢文によるものであって、国典には暗いものが多かった。国典に明るいものは、漢文に疎かったりする。源君のような和漢を学ぶものは少なかった。

   文化年間、江戸の湯島に狩谷エキ齊という市人がいた。エキ齊は、和漢の学に通じ、博文強識の学者だった。考証のためにこの書を好んで読んでいたが、刊行された本は、疑問点、誤りやイリマジリの混乱があることを憂えていた。古い原本(写本)が失われて伝わらないため、いくつもの伝本を校閲研究し、十寒暑の歳月にわたって、諸本に箋注を施し、誤謬を正し、誤りの箇所を明らかにして、その原稿は3稿に及んだ。源君の真面目な記述内容が窺い知れ、原著執筆の苦心が想起されるものだった。本書の伝抄本もきわめて少なく、エキ齊の手稿本も惜しいことに、雑草に埋もれている如くで、世にその存在を知るものは少なかった。

   吏員、森立之〔生年1807年・没年1885年〕はかつてエキ齊と交流を結び、その学を伝えんと、校正版を作ろうと考え、文章の様式凡例、用字の用例ルールを施し、再三にわたり加除訂正の作業を進め、活字版の印刷発行をして世に出したのである。願わくんば倭訓古言の知の世界をより多くの人々に知っていただきたいと思う。

  明治16年4月

       大蔵技監正五位得〔原文「サンズイ」〕能良介撰

○凡例

一 この書の本〔もと〕の文字体は、悉く「京本」による。その中に多用される晋唐の時代に使われていた俗字・訛〔譌〕字については、例えば「牽」は「牽’」に作り、「葉」は「葉’」に作り、「雖」は「雖’」に作るという類の字体であるが、これらは、今回、皆、正体に直して載せた。読者が読みやすいようにと考えたためである。ただし、それらの字は俗体に及ぶものといえども、その義は同じものであるばあいに校正を加え、すでに箋注を加えてエキ齊に説明を与えられてあるセンテンスで使われている文字についてまでは、改めなかった。

一 「苑」は或は「[草(早→宛)]」、「萬」は或は「万」、「爾」は或は「[今(ラ→小)]」の類であり、文義に影響を与えないものは、それらの字体の両方を並存させ改めず、また、その場合は所謂旧字を残した。

一 箋注の文字考証の際には、和漢書から引用し、或は、異同する記載を連載し、或は、同じ書からくりかえし引用する場合もあり、また類似箇所の重複引用も少なからずある。その意味する内容が深く(シンスイ)、その引用が不可欠である場合には繁冗になることをいとわず原文のまま載せた。

一 国書倭歌の掲載については、その意が通じるものは(全文ではなく)節録として載せ、或は、節録できないものについては全文を載せた。但し、真名字に代え仮字で載せた。一に万葉集の字体に倣った。

一 毛伝に、「その書を読み、その人(の可たる)を知らずや」とあり、今回の編にあたって、巻末に附として、「源君本伝」ならびに「エキ齊墓誌」を載せたので、読者はご一読いただきたい 。

 

〔以下『箋注倭名類聚抄』巻第一以降本文〕

 

○箋注倭名類聚抄巻第一

                  エキ齊狩谷望之著

校例提要

  謹んでエキ齊按うに、上古は実に淳朴であり、文籍はいまだない時代であった。漢字が移入され始めてより事を紀して、訳語の書がようやく編じられるようになった。例えば、「楊氏漢語抄」「弁色立成」「日本紀私記」「本草和名」などの諸編がこのような書である。然るに、これらの書はいまだより詳しく編集整備されたものとは言えず、延長公主のとき能登の守だった源君に命じ、この書を輯録させたのである。

   上は天地より、下は草木に至るまで源を見極め、流れ〔類義系統〕を究明し、集成し尽くしている。当時といえば漢字によらなければ知に触れられない時代であったから、後世にたいしても、漢字によって古言の証を教じたのである。かつまた、その典拠として引用した典籍は、すべて隋・唐から伝わった古い書物であり、そのため散逸しているものは、その書の約略をひろうことができ、現在、伝わって存在しているものは、譌謬を訂正し、原本の姿にもどすようにすべきであろう。〔以下「可レ不益? 〔寶〕重乎」意味がよくわからない。豈、寶のような貴重な書籍を益としないわけにはいかない?というような意味か、?〕

   わたしは、若き頃この書を重ねて習いながら鉛槧(えんざん=文筆)を志してきた。ただ残念に思うのは、この伝書には多くの誤りがあり、甚だしくは文義が通じない部分もあるほどである。ここに、古本を捜索し、若干本を獲て、自らのあさはか(センロウ)をもかえりみず、互いの書の記載を検証し詳細な考察を加えて、善なるを選び、互いに間違いのない記述(両佳者)であることを渉猟し、必要な箇所に注を書き、明らかに誤字であることが顕然としているといえども、二本が同じ記述を与えているものも、その旨を弁じた。

   この書は、従来より二種の本があった。一は10巻本であり、一は20巻本である。20巻本は、10巻本よりも多くのセクションが含まれている。すなわち、「時令」「楽曲」「湯薬」「官職」「国郡」「殿舎」のおよそ6部がそれである。「時令」の一部は訓注のすべてが欠けている。「楽曲」「湯薬」和名のないところがある。「官職」「国郡」「殿舎」の諸名に至りては、皇国の制度より訓語を載せたりと雖も、和名を示していない。 また、釋顕昭〔1183年「古今集註序」〕、仙覚〔1269年「万葉集抄」〕、卜部兼永〔1467〜1536年、日本書紀、古事記古写本蔵者〕、源善成公〔1326〜1402年、四辻善成。源氏物語注釈「河海抄」〕等の書では、この書の存在を記すが、6部に至りてはその一をも記していない。即ち、20巻本は、源君の記した旧本にあらずと決知したものである。故に、今、これらにより10巻本を定本とした。

   しかるに、「類聚名義抄」や「伊呂波字類抄」は、最近では、20巻本を根拠とするに似た記述があるとされたり、また「本朝書目」に両本をのせ、20巻本が新しい増補版にあらずとするなど、いまの人々は慣見することとなっている。故に援引参校し、彼の書の誤謬の如きを、ひとつひとつ弁駁(べんばく)し、冀(き)して疑いを後世に胎さず。 およそ源君が引用した書について現存するものは手元においてこれに訂正を加え、今、これ非ず(訂正を加えなくてもよい記述)は、また、それらの記述をそれぞれ臚列(リョレツ)し、その異とする部分を示した。逸っして存在しない書は、その類書によって校閲を行った。

   ところで、引用した書に記された説に誤りがあるときは、源君がこの誤りを踏襲した場合もあれば、あるいは、源君が誤って引用してしまった場合もあろう。あるいは、またその説そのものが誤っている(謬戻ビュウレイ?)場合もあろう。今のところは、これを校するにあたって、もっぱら伝写の誤りを正し、あらためて、源君の旧本に戻すことが必要な場合も、これらの諸件をよく集めてしめすだけで、とくに論考を加えなかった。〔恐、以下、丘蓋如也、までちょっと意味を取りにくいのだが……〕いまだ初学の輩であるためにその謬り受けることをおそれて、毎条ごとにあきらかにする箋釈を書き記し、○〔圏子=丸印〕以下に私見を記したのも、そのためである。 また、倭名の意義を知ることは、前人の解釈した所を著らかにし、そのはなはだ安直な解釈であるとして、これを改めんとしても、そのことに詳ならずは、丘蓋の如しである。しかるに、そもそも、古語とは解釈できないようなものが多くあるのであって、その漏れ落ちや、謬りのごときは、鋭敏なる読者君子に求めて期待したい。

   文政十〔1827〕年五月端五日湯島狩谷望之

 

○参訂諸本目録

 

京本{[技(支→晋)]紳某公の蔵する本で、今、この本を定本としている。而して、この本とて譌や脱は免れないが、今、諸本はこれに従い、改め正した。}

又一本{相伝旧本であり、難波宗健卿の蔵本であった。装釘3冊本。今は、二家に文蔵す。その上1冊は、錦所山田翁の蔵本となす。中下2冊は御医・福井崇蘭君の蔵本となす。今、山田本、福井本は別に所蔵されている。}

尾張本{尾張国大須宝生院の所蔵。わずかに、第1、第2両巻が存するのみで、さらにそれらも脱逸がある。寛政13年、名護屋・稲葉通邦の墓刻に于世の伝が記されている。}

伊勢本{伊勢国山田中西信慶の遺本。子孫の保之に伝わるのは、第1、第2、第9、第10の4巻が欠。第8巻の尾題に云う。公意僧正御房より三井沙門任契に伝領されたものである。按うに、公意は、道意僧正の弟子であり、道意は良[喩(口→王)]僧正の弟子である。諸嗣宗脈紀を見ると、良[喩(口→王)]・道意の2伝が、本朝高僧伝に在る。ただ、任契は攷なし。諸嗣宗脈紀を検’するに、公意の弟子、尊契にあり、これが即ち任契乎、あるいはその法兄弟であろう。稲葉通邦は、中西氏が所蔵する20巻本の第2巻がこの(伊勢本の)第2巻とするのは誤りである。}

昌平本{江戸昌平坂学問所蔵本である。第7から第10巻の4巻が欠。巻首に天師明経儒清原経賢船橋家蔵の印記あり。按うに、経賢は、秀和真人二男で、元の名・宣相で、栄相に改め、後に経賢に改めた。正五位下式部少輔。寛文12年出家し、法名常覚、時年三十二卒年未詳。}

曲直瀬本{江戸の官医、曲直瀬氏懐仙閣所蔵本。第5から第10の6巻が欠。この本は後人により改竄されたものと見られる。}

下総本{下総国香取郡鏑木村人、平山満晴の蔵本。毎巻に題あり、天文丙午天とある。第1、第2巻末に、誂全宗書之とある。第3に、誂和冲東C’書之とある。第4に、誂奔俊書之とある。第5に、誂伊舜上人書之とある。又、毎巻題に、寛保癸亥五月、於平安書肆得之とある。總陽沙門快賢伴題、皆その人物には詳ならず、この本は、編次古い形によるといえども、合併して5巻となし毎巻の子目を削除して、すでに古本の体裁様式を失っている。さらに、他書に用いたり本書を改めるなど諸本中のランクをつければ最下位となろう。いま、根拠とすることが可能な記載を選び之を校閲利用した。}

      以上10巻本 

    今この書を校註するには「京本」をもって原本とした。語彙を校閲し旧本を云う場合はこの京本をさす。諸本の異書については逐条ごとに名をあげて校合し、また20巻本は適宜参考にした。

伊勢本{また、中西進慶の遺本であり、中西家に今、第3から第8の6巻及び第10の欄額条以下巻尾に至るまで欠ている。那波氏活字本の校例に第10巻末9葉脱失というものと合致する。20巻本中ただこの本のみが古いものとみられ、今校註する言葉としては「伊勢 廣本」というのはこの本のことである。稲葉通邦が、この本の第2巻が公意僧正本としているのは誤りである。}

温古堂本{江戸倭学講談所の蔵本である。按うに、那波氏の活字本校例にいう、旧本は謄写の脱誤重複があり、行に高低なし。字は、細大の使い分けはない。その混淆によって見ずらくなっていることを憂慮し、諸書を考察して、訂正をしたところは少なくない。 且、その第十之巻末の9葉が脱失していることは、すなわち、別本をもってこれを補ったものである。これを那波氏が改めている箇所も多く、活字本に比べて小異あるといえども界行字数に至リてはその式は皆同じである。第十巻また完全である。すなわち知るは、この本が那波氏が校するところの活字本の原秩である。}

活字版本{元和3年、那波道円の校印あり。凡例に云う。訂正少なからず。然るに、その改ためたところは、反して、是を非とするものも、間(また)これ有り。}……訂正箇所は少なからずあるが、正しく修正されているとはいえず、なお誤りがある、というような意味か。 要確認。

刻版本二{巻尾題に云う。慶安元年戊子歳〔1648〕霜月吉辰に新刊なる。蓋し、坊刻〔民間の発刊〕也。この本は、活字本に依りて重刊にして、一、二の校改あり。重刊の際に、亦、誤脱を免れず、又、寛文丁未歳〔1667〕仲秋日、村上某により刊行と題あり、或は、大坂心斎橋渋川某版と題す。皆、書沽転購印版は、当時改題したものであり、重彫者にあらず。また、小字版本あり。巻尾題に云う。寛文十一孟冬〔1671〕洛陽書林積徳堂開版。また貞享五戊辰年〔1688〕暮秋吉辰神雅(?)銅駝坊書肆村上平楽寺重梓。これまた、慶安版本に依る重刻である。毎巻首子目を去り刷り、開巻先、其の舊貫にあらずを知り、西土坊刻の書とあるはこの類の本である。}

 

  以上二十巻本。

    今参校するところの二十巻本は、皆同じ系統のものである。廣本に云う、後人が増広するところの本なり、而して温古堂本以下は、皆、那波氏が校する本ということで同じであり、故に、広本中には異なる部分がある。すなわち、伊勢広本、那波本に云う、以てこれを分かち、那波本中には同じからざる部分がある。すなわち、温古堂本、活字本、刻版本に云う、これらを分かち識別すべし。そのほか、余、見るところに、諸家が家蔵する写本がおびただしく多くあり、皆、伊勢本、下総本の近日までの伝抄本に過ぎない。而して、其のそれぞれ少しずつ異同があり、倶くは、それぞれの書ごとに疏漏があるにすぎず、今、は「概ね」として結論をださないということとしておこう。名山石室のようなところにあるかもしれない古本の蔵が確認されて、後の賢人がこれを得て、再訂されんことを、余は企望したい。

 

倭名類聚抄總目

     巻第一

天地部第一

  景宿類一     風雨類二     神霊類三{天神地神有り、故にこの部に取る}

  水土類四     山石類五     田野類六

人倫部第二

  男女類七     父母類八     兄弟類九

  子孫類十     婚姻類十一    夫妻類十二

     巻第二

形体部第三

  頭面類十三    耳目類十四    鼻口類十五

  毛髪類十六    身体類十七    臓腑類十八

  手足類十九    莖埀類二十

疾病部第四

  病類廿一     瘡類廿二

術芸部第五

  射芸類廿三    射芸具廿四    雑芸類廿五

  雑芸具廿六

    巻第三

居處部第六

舟車部第七

珍宝部第八

布帛部第九

    巻第四

装束部第十

飲食部第十一

  薬種類五十一   水漿類五十二   飯餅類五十三

  麹類五十四{粮附出}   酥蜜類五十五   果菜類五十六

  魚鳥類五十七   塩梅類五十八{薑椒橘皮等附出}

器皿部第十二

  金器五十九    漆器六十    木器六十一

  瓦器六十二    竹器六十三

灯火部第十三

  灯火類六十四  灯火具六十五  灯火器六十六

    巻第五

調度部第十四

    巻第六

調度部下

    巻第七

羽族部第十五

  箋注倭名類聚抄:鳥名百               鳥體百一

毛群部第十六

  獸名百二      獸體百三

牛馬部第十七

    巻第八

龍魚部第十八

  龍魚類百八    龍魚体百九

龜貝部第十九

  龜貝類百十    龜貝体百十一

蟲豸部第二十

  蟲名百十二    蟲体百十三

    巻第九

稲穀部第廿ニ

  稲穀類百十四   稲穀具百十五

 

 

 

〔巻第一 序〕六(オ)〜十一(ウ)倭妙類聚抄序

倭名類聚抄序

竊以延長第四公主{○エキ斎按う。公主とは、勤子内親王である。醍醐天皇の皇女であり、『一代要記』に勤子と列せられ、内親王の第八(番の順位)に在り、『皇胤紹運録』に列せられている順位は第五に在る。然り、源君は、公主の外戚であり、旨に奉じてこの書を撰じた者となったのであるから、(この公主の順位に)誤りがあるはずはない。この序を以て正しく記したのであろう。 『後撰集』に載る、「藤原師輔」公の歌、及び「伊勢」歌小序、「真延法師」歌の小序においてもまた、「女四の御子(みこ)」と記していることなど、この 抄本文と同じである。}  

抄本文読み下し(ひそ)かに以(おも)へらく。延長の第四公主は、

〔注〕(00-1) 竊:窃:セツ。「謂」あるいは「以」と続けて「ヒソカニ、オモヘラク」と読む。公主に対し謙譲の意を表し、「窃(ヒソカ)に」(私:源順が考えるには)、と序の冒頭に置く常用の句である。

00-2)延長:平安期、「延喜」(エンギ:901〜923)に続く「延長」(エンチョウ:923〜931)年であり、醍醐天皇から朱雀天皇にかかる年号。

00-3)公主:中国において天子の娘。皇女。その由来は、天子の娘の結婚は、諸公(侯)がつかさどったことから。(【学研新漢和大字典】)

00-3-その2)勤子内親王:キンシナイシンノウ・イソコナイシンノウ(延喜4・904年〜天慶元・938年):醍醐天皇の皇女。母は更衣源周子(嵯峨天皇の曾孫で、祖父は源定)。

00-4)一代要記:古書注参照:「一代要記」(京都大学付属図書館平松文庫蔵 本):第3巻(v3-35/118)第六十醍醐天皇{唐昭宗光化元年戊午}…(v3-58/118)朱雀天皇…(v3-59/118)皇女/@康子内親王{略}/A恭子内親王{略}/B婉子内親王{略}/C宣子内親王{略}/D慶子内親王{略}/E詔子内親王{略}/F濟子内親王{略}/G勤子内親王{延喜八年四月五日為内親王年五歳、承平六年正月叙四品、天慶元年十一月五日薨年三十四、天慶元年配中納言師輔} /H都子内親王{略}…以下略。順番数字は編註者付記。

00-5)皇胤紹運録:古書注参照:『本朝皇胤紹運録』第1巻(v.1,31/52)(京都大学附属図書館平松文庫 )ホンチョウコウインジョウウンロク(洞院満季編):京都大学附属図書館所蔵 平松文庫 『本朝皇胤紹運録』 [v.1,31/52] :第六十醍醐天皇―……@勧子内親王{略}―A宣子内親王{略}―B恭子内親王{略}―C慶子内親王{略}―D勤子内親王{四品。配九条殿、師輔出。母同〔為子内親王。光考女〕}―都子内親王{略}―婉子内親王{略}…以下略。順番数字は編註者付記。

00-6)公主外戚: 源順(911〜983)、延喜11年生れ、父は嵯峨天皇の子、源定の孫、源挙(あるいは攀)。前掲注(00-3-その2)参照。

00-7)後撰集:勅撰和歌集(二十巻)の略称で、源順ら梨壷(なしつぼ)の五人(五歌仙)の寄人による撰。951年撰進。

00-8)藤原師輔:フジワラノモロスケ(908〜960)藤原忠平の子。九条殿。前掲注(00-4)のGにみるように、勤子内親王の夫。

00-9)女四御子:オンナシノミコ(あるいは、オンナヨノミコか?訓み要確認)(女四の宮。第四皇女):@藤原師輔公の歌:「後撰和歌集」(753)[詞書]女四のみこにおくりける/師輔右大臣/葦たつの沢辺に年はへぬれとも心は雲のうへにのみこそ。/[詞書]返し/女四のみこ/あしたつのくもゐにかかる心あらは世をへてさはにすますそあらまし。A伊勢歌小序:「古今集」等に多く載る女性歌人、「伊勢」による勤子内親王が亡くなったのちに詠んだ哀傷歌:「伊勢集」女四の宮かくれさせ給へるとふらひ/きこえさすとて/<撰>こゝらよをきくか中にもかなしきに人のなみたもはてやしぬらむ/返し:<同>きく人もあはれといふなるおもひにはいとゝなみたもつきすもあるかな/…以下略。B真延法師歌小序:「後撰和歌集」(999)[詞書] 故女四のみこののちのわさせむとて、ほたいしのすすをなん右大臣もとめ侍るとききて、このすすをおくるとてくはへ侍りける/真延法師/思いての煙やまさんなき人のほとけになれるこのみみは君

柔徳早樹、淑姿如花、呑湖陽於陶(コザト→月)陂{○湖陽長公主、後漢の光武帝の妹のことである。}  

山陰於気岸{○晋の武帝女、及び斎明帝女、いずれの方も 山陰公主とあるが、これがいずれをさし、何を出典としているのか詳(ツマビラ)かとしない。}  

抄本文読み下し(ひそ)かに以(おも)へらく。延長の第四公主は、柔徳にして早くに樹ち、淑姿は花の如く、湖陽の胸’陂を呑み、/山陰の気岸を籠す。

〔注〕(00-10)湖陽長公主:【後漢書】(WLDB):卷十四:宗室四王三侯列傳第四:北海靖王興、建武二年封為魯王、嗣光武兄仲。初、南頓君娶同郡樊重女、字嫺都。{嫺胡反。説文、嫺雅也}嫺都性婉順、自為童女、不正容服不出於房、宗族敬焉。生三男三女。長男伯升、次仲、次光武。長女黄、次元、次伯。皇妣以初起兵時病卒、宗人樊巨公收斂焉。建武二年、封黄為湖陽長公主、伯姫’為寧平長公主。元與仲倶歿于小長安、追爵元為新野長公主、十五年,追諡仲為魯哀王。:このように、「湖陽長公主、黄」は、光武帝の姉である。 抄本文「陶(コザト→月)陂」は、「胸陂」(キョウヒ)であろう。「陽」於「胸’陂」:「陰」於「気岸」とが対となって解釈し、何れも利発さと清楚さ奥ゆかしさや気の強さなどを、中国の歴史上の皇女に比し、陽と陰にかけて表現していると思われるが、キョウヒとキガンの意味が、ピンとこない。不詳、さらに用例を検証して適訳語を探そう。

 

年纔七歳、初謁先帝{○先帝は、醍醐天皇を謂う。源君 が、この書を撰じたとき、朱雀院天皇の承平年中に在った。故に醍醐天皇を謂い、先帝と記したのである。エキ斎按うに、古には、皇后及び女御更衣が懐孕(カイヨウ・懐妊)すると里第を退出し、退出されたところで、皇子皇女がご誕生され、年齢が7、8歳となり、初めて禁内に入られる。その新たな儀式のことをいう。内親王は、7、8歳に なると、初謁事があるのがこれである。詳らかには、 『栄花物語』、『大鏡』等の書に見ゆ。}  

抄本文読み下し前略…延長の第四公主は、/柔徳にして早くに樹ち、淑姿は花の如く、湖陽の胸’陂を呑み、山陰の気岸を籠す。/年纔(わずか)七歳にして初めて先帝に謁す。

〔注〕(00-11)初謁の儀式:後日記す。

先帝以其姿貌言笑、{○昌平本、曲直瀬本は、貌は色に作る。広本も同。昌平本、曲直瀬本の校語 は、一本貌に作る、と云う。}

毎事都雅、特鐘愛焉、即賜御府筝、手教授其譜、公主天然聡高、学不再問、一ニ年間、能究妙曲、十三絃上更奏新声{○『源氏物語 』、『河海抄』は、筝を教授することを記して云う。命婦石川色子、筑紫の彦山において、唐人に遇い、これを伝えられる。寛平法皇授け奉り、法皇は本院の左大臣に伝え、左大臣は醍醐天皇に伝え、天皇は第四公主清愼公と宮女伊勢に伝えた。}  

抄本文読み下し前略…年纔(わずか)七歳にして初めて先帝に謁す。先帝、其の姿貌言笑の/毎事都雅なるを以って、特に愛を鐘(あつ)めん。即ち御府 筝を賜(たま)い、手ずから其の譜を教授す。公主は天然聡高にして、学びても再問せず。一、二年の間、能く妙曲を究め、十三弦の上に更めて新声を奏す。

〔注〕(00-12)都雅(なり):姿や振る舞いが上品であること。

00-13)特鐘愛焉:特に鐘愛す。寵愛す。鐘は、「アツマル」と訓む。:宋李ムの篇撰『太平廣記』巻二百五〈樂三‧羯鼓‧玄宗〉: 唐玄宗洞曉音律、由之天縱。凡是管弦、必造其妙。若制作調曲、隨意即成。不立章度、取适短長。應指散聲、皆中點指。至于清濁變轉、律呂呼召、君臣事物、迭相制使、雖古之夔曠、不能過也。尤愛羯鼓…中略…。又、汝陽王昨、宁王長子也。姿容妍美。秀出藩邸。玄宗、特鐘愛焉、自傳授之。…以下略。

00-14)「石川色子」筝伝授譚:後記す。源氏物語、河海抄用例後日確認する。

醍醐山陵、雲愁水咽{○『日本紀略 』延長八年九月廿二日壬午、天皇が位を去られ、皇太子寛明親王に譲られた。廿九日巳丑未一剋(刻)に太上皇が崩じられた。十月十日庚子、大行皇帝が山城国宇治郡山科陵醍醐寺北笠取山西小野寺下に葬り奉られた。 『政事要略』に、醍醐山陵は、後山階と号す、と記されている。}

抄本文読み下し前略…一、二年の間、能く妙曲を究め、十三弦の上に更めて新声を奏す。/醍醐の山稜に、雲愁、水咽びてより、

〔注〕(00-15)(00-16

永辞魏闕之月、不秦筝之塵、時々慰幽閑者、書画之戯而己、於是因点成蠅之妙、殆上屏風{○虞世南撰の 『北堂書鈔』が、「呉録」を引用して「曹不興は善く画をしたが、あるとき孫権は屏風に画くよう命じた。曹は、誤って筆を落おとし點痕がのこったが、即座に因って以って蠅 に作り画いてしまった。孫権は、そうとはしらず、本物の生きた蠅だとおもって、手をさし伸ばして之の蝿を弾いた、」と曰う。}

筆廻鸞之能、 亦’功垂露{○(唐の書家)張懐瓘「書断」 の「史游(制草)」に「始務急就、婉若廻鸞、攫如摶獣」を載せる。また、孫過庭「書譜」は、「懸針垂露之異、奔雷墜石之奇」を云う。} 

抄本文読み下し前略…一、二年の間、能く妙曲を究め、十三弦の上に更めて新声を奏す。/醍醐の山稜に、雲愁、水咽びてより、/永(とわ)に魏闕(ギケツ)の月を辞し、 秦箏(しんそう)の塵を払わず、時々幽閉を慰むるは、書画の戯れのみ。是において、それ、点、蝿と為すの妙、殆(まさ)に屏風の上にす。/筆をもっては廻鸞之を能くし、また垂露を巧にす。

〔注〕(00-17)虞世南撰「北堂書鈔」 隋の時代虞世南が撰じた類書。清の光緒帝に重刊された書が、京都大学付属図書館に文学部蔵書本が所蔵されている。 (その画像の1頁→HERE

00-17-その2)曹不興善画、孫権使画屏風、誤筆落點素、因以作蠅、権以為生蠅、挙手弾之: 有名な画家「曹不興」は呉興(今の湖州)の人で、人物、仏像を描くのに長じ、龍を描くのが最も得意であった。あるとき、曹不興が呉王「孫権」の命(依頼)で屏風を描き、誤って墨を落としたが、彼はそれを蝿に見せて作ったが、孫権はそれを見て本物の蝿だと思い、手で弾こうとした、という「誤筆成蝿」の故事である。後日読み下す。

00-18)張懐瓘(チョウカイカン・710〜765)は、唐の書家。「石巌當」の由来にかかわりがあるとのこと。後日、補注すべし。

00-19)孫過庭(ソンカテイ ・648〜703)は、唐の書家。草書の手本で現代の日本でも知られる。故宮博物館蔵「書譜」をネットで見ることができる。→

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpoem/shupu.html

  觀夫懸針垂露之異、奔雷墜石之奇、鴻飛獣駭之資、鸞舞蛇驚之態、絶岸頽峯之勢、臨危據槁之形云々:夫の懸針垂露の異、奔雷墜石(ほんらいついせき)の奇、鴻飛獸駭(こうひじゅうがい)の資、鸞舞蛇驚(らんぶだきょう)の態、絶岸頽峰(ぜつがんたいほう)の勢、臨危據稿(りんききょこう)の形を觀る。……ということで、懸針垂露(けんしんすいろ):基本の書法をいい、筆法の一。縦に引く画(カク)の終筆をはらい、針のように尖らすことをいう。また、「垂露」は、同じく縦に引く画の終わりをはらわずに筆を押さえて止めること。(広辞苑)

漸弁八体之字{○「漢書」芸文志、八体六枝。 『説文』序、秦書に八体あり、一に曰く、大篆、 二に曰く、小篆、三に曰く、刻符、四に曰く、蟲書、五に曰く、[莫/手]印、六に曰く署書、七に曰く殳書、八に曰く隷書、}  

抄本文読み下し前略…筆をもっては廻鸞之を能くし、また垂露を巧にす。漸く八体の字を弁(わき)まう。

〔注〕(00-20秦代に用いられた書体の種類として、「説文」序に記されている八体。
 (1)大篆(だいてん)重要な記録などを竹簡に書く時に用いる書体。
 (2)小篆(しょうてん)大篆に同じ。
 (3)刻符(こくふ)符伝に用いる書体。
 (4)蟲書(ちゅうしょ)虫や鳥の形に似せ、幡信(旗のさしもの)に用いる書体。
 (5)[莫/手]印(もいん)繆篆(びゅうてん)ともいい、印章に刻る書体。
 (6)署書(しょしょ)門などの題額に用いる書体。
 (7)殳書(しゅしょ)武器に刻する書体。
 (8)隷書(れいしょ)公文書に使う書体。

豫訪万物之名、其教曰、{○『文選』注 は、蔡邑「独断」を引用して「諸侯言を教≠ニ曰う」と曰う。}  

我聞思拾芥者、好探義実{○「漢書」夏侯勝伝、 勝、講授の毎に、諸生に謂う。曰く、「士病不明経術、苟明、其取青紫、如俛拾地芥耳」} 

折桂者、競採文華{○葉夢得 「避暑録話」に、「世は登科を以って折桂と為す、唐自り以来之を用う。」を云う。温庭筠の詩は、「猶喜故人先折桂、 自憐羈客尚飄蓬。」と云う。白居易の詩は「桂折因同樹、鶯遷各異年。」と云う。何れも「折桂」を云う。}

抄本文読み下し前略…筆をもっては廻鸞之を能くし、また垂露を巧にす。/漸く八体の字を弁(わき)まう。/予め万物の名を訪ぬ。其の教に〔公主〕曰(もうさ)く。/我聞くに、拾芥を思う者は、好みて義実を探る。/折桂を期す者は競いて文華を採る。

〔注〕(00-21

00-22)温庭筠(812〜872):字は飛卿。唐後期の代表的詩人。「春日將欲東歸寄新及第苗紳先輩」より。

00-23)白居易:「東都冬日會諸同年宴鄭家林亭」より。「折桂」=桂ヲ折ル。登科=科挙試験に合格すること。科挙試験に合格せんと、競って文華(歴代の名文)を採用することとなった。

00-24)なおここまでの記述が序の序ともいえる前段にあたるセクションにあたる。次の「至于和名」以降が、なぜ倭名類聚鈔を撰ずることとなったのかの、前段「公主曰さく」以降前段を受けての動機付けにあたる、和妙類聚抄成立の背景が語られる。和名の頭に付く「于」に、選者の強い意志を感じる。  

于和名、 弃而不屑、是故雖一百帙文舘詞林、{○『唐書 』「経籍志」は「文舘詞林一千巻、許敬宗撰」と云う。エキ斎按うに、古典籍は十巻を以って一帙と為し、故に此抄本文では「一百帙」といったのである。江少虞の『宋朝事実類苑 』は、楊億「談苑」を載せ、「景徳三年に予は、銀台通進使を知り、そこに日本人僧が入貢していて、そのものを召問する機会があった。その僧は、華の言が通じなかったが、筆礼を善くしたので、命じて、牘(ドク:筆を書き記す木片)をもって対することとした。そのものが云うには、天台山延歴寺に住み、身(みずから)を 寂照≠ニ名のり、号は圓通大師=B本国には、国史秘府略∞日本紀≠竍文觀詞林∞混元録%凾フ書が有るという。」と記している。

  エキ斎按う。「文觀詞林」「混元録」は『文舘詞林』『坤元録』を誤ったものであろう。是れらの書は、宋代すでに亡失していたため、楊氏は、「文觀」「混元」と誤って書き記したのであ り、 また、皇国(日本)が作った書であるとしたのであろう。而して、皇国が伝えることとなった『文舘詞林』は、また多く散亡したが、名山古刹が時に零本を所蔵している場合があり、わたし(望之)も、嘗て古本二巻を獲たことがある。それぞれに、弘仁十四年(823)校書殿写之とあり、冷然院がゥ(シ)(蔵)するものであり、官本である。近きは、林述斎君がこの書四巻を書写し、 『佚存叢書』中にこれを収めた。これによって世人は千歳の逸典を窺い知ることができるのである。その書は又、西土(中国)に伝わることとなり、孫星衍が『続古文苑』を編し、この書を引用し た。これこそ「文林盛事」と謂うべきなり。}  《和名に至ては、棄して屑(いさぎよし)とせず、是故に一百丁の文舘詞林、》

三十巻白氏事類{○『新唐書 』「芸文志」は、「白氏経史事類三十巻、白居易、一名六帖」と云う。エキ斎按う。現在伝わる六帖は、宋の孔伝が後に撰じた六帖を合併して、巻を分け、百巻とし、題を「白孔六帖」という。清の「四庫全書」の総目録に云う。案文献通考、六帖三十巻は唐白居易撰、後六帖三十巻は、宋の知撫州(撫州長官)孔伝の撰、両書を合わせて六十巻となす。両書を編じて一書としたことで、 なんびとが、ニ書を合して作られたことを知ろうか。又、百巻に作った書も、これらを分けて編集されたものであることを知るものはほとんどいない。考するに、胡仔(コシ)撰「[茜(西→召)溪漁隠叢話」、称して、六帖新書とある。出於東晋兵[焚’]之余、南北隔絶、其本不於江左、弗一レ益見、則南渡初〔なんとなく分かるがうまく訳せない〕。なお伝本無し。王応鱗は「玉海」で始めて(?)称するに、孔伝に亦た六帖あり、今、合して一書と為す、則ち、南宋の末に併わせ一書にしたのであろうか。また、段玉裁の「経韻楼集」では、宋本三十巻白氏六帖跋があり、則ち、今、西土に、白氏原帙が伝わった本が残ったのである。}  《三十巻の白氏事類と雖も、》

而徒[備’]風月之興、難世俗之疑、適可其疑者、弁色立成、{○藤原佐世(ふじわらすけよ)の「日本国見在書目録」雑家に、「弁色立成」一巻成るが、今は伝本無し、とある、}  《徒(いたずら)に、風月の興に備えるのみにして、世俗の疑を決し難し。適(かのう)ことに、其の疑いを決すべきは、弁色立成、》 

楊氏漢語抄、{○「漢語抄」、今、伝本なし、巻数や撰人ならびに攷すべきものが無い。} 《楊氏漢語抄、》

大医博士深根輔仁、{○「日本紀略」に云う。延喜十八年〔918〕九月十七日、右衞門府の医師にあった深根輔仁(ふかねすけひと)は、「掌中要方」「類聚符宣抄」を撰進した。延長三年、時原興宗(?)ら試医生に課し請した状文の中に「権医博士深根輔仁」の名が記されている。「法曹類林」に、承平六年(936)、侍医深根輔仁、医師の坐次を問うたとある、その人である。エキ斎按うに、「続日本後紀」に、承和元年(834)六月辛丑、和泉国人正六位上の蜂田薬師文主、従八位下の同姓安遊等は、深根宿禰の姓を賜る、とある。輔仁は、ここに記された文主、安遊らの裔孫(とおい子孫)に応(あ)たり、家世(代々継承されたいえがら)は医を業としてきた。今本の「法曹類林」では、滋根輔仁と作り、「本朝書籍目録」では、源輔仁と作るが、皆誤りである。}  《大医博士深根輔仁が、》

勅撰集和名本草、{○「和名本草」二巻。今存する尾張本、曲直瀬本は、和名の上に新抄の二字あり。廣本も同じ。エキ斎按うに、本書名を引くときに、「新抄本草」と云いしを、新抄の字があるのは是(和名)に似るところかも知れない(?)、}  《勅に奉じて撰し集めた和名本草、》

山州員外刺史田公望日本紀私記等也、{○「本朝書籍目録」に、「日本紀私記」三巻とある。また、云う。承平六年(936)私記に矢田部宿禰公望撰。エキ斎按うに、「釈日本紀」を引いて云うには「延喜公望私記」とある。然るに則ち、承平六年と云う記載はおそらく誤りであろう。今、この書の伝本は無い。}  《山州員外刺史田公望(でんきんもち)が日本紀私の記等なり。》

然猶養老所伝楊説纔十部、{○「楊氏漢語抄」のことを謂う。}  《然れども猶お、養老に伝する所の楊が説は纔(わずか)に十部、》

延喜所撰薬種只一端、{○「倭名本草 」を謂う。} 《延喜に撰する所の薬種只一端なり。》

田氏私記一部三巻、{○「日本紀私記」を謂う。} 《田氏私記一部三巻は、》

古語多載和名希存弁色立成、十有八章、興楊家説名異実同編録之間、頗有長短、其余漢語抄不何人撰、世謂之甲書、或呼為業書、甲則開口裒揚之名、業之服膺誦習之義、俗説両端、未其一矣、又其所撰録名、{○尾張本「名」字無し。廣本同じ。}  《古語多く載れども和名希に存れり。弁色立成十有八章は、楊家説と名異実同にして、編し録するの間頗る長短あり。其余の漢語抄は、何人の撰なるかを知らず。世は之を甲書と謂い、或は呼て業書とす。甲は則ち口を開きて裒揚(ほうよう)するの名、業は之れ服膺誦習するの義なり。俗説両端、其の一を未だ詳かにせず。又其の撰録する所の名、》

音義不見、浮偽相交 、海蛸為[蛸( 肖→爪)]、{○龜貝類を見よ、} 《音義見(あらわ)れず、浮偽相交なり。海蛸に[蛸(肖→爪)]となし、》

河魚為[魚+輩(非→北)]、{○龍魚類の鮠の條を見よ、}  《河魚に[輩(非→北)]となし、》

祭樹為榊、{○祭祀具龍眼木條、及び木類坂樹條を見よ、}  《祭樹に榊となし、》

[繰(糸→サンズイ)]器為{○漆器及び[繰(糸→サンズイ)]浴具[区(メ→也)]條を見よ、}  《[繰(糸→サンズイ)]器に楾(はんぞう)となす》

等是也、汝集彼数家之善説、令我臨文無一レ疑焉、[休(木→業)]之先人、幸忝公主之外戚{○エキ斎按うに、公主(勤子内親王)の母は、(醍醐天皇の)更衣周子である。源唱の娘(女)であり、唱の弟致との間(?)に挙(こぞる)を生む。挙は即ち順の父である。挙は内親王の従舅にあたる。}[休(木→業)]=僕’。  《等是なり。汝、数家の善説を集めて、我をして文に臨みて疑うところ無からしめん。僕の先人、幸いにも公主の外戚を忝(かたじけな)くす。》

故僕’得其草隷之神妙、僕’之老母、 亦’陪公主之下風{○源君の母は其の姓氏は未詳であり、公主の下風(カフウ。下に仕える)の陪席の身分にあったものだろう。所見なし。}  《故に、僕、其の草隷の神妙を見ることを得たり。僕の老母は、また、公主の下風を陪(そ)へり。》

故僕’得其松容之教’命、固辞不許、遂用修撰、或漢語抄之文、或流俗人之説、先挙本文、正説各附出於其注、若本文未詳、則直挙弁色立成楊氏漢語抄日本紀私記、或挙類聚国史{○本朝書籍目録に、類聚国史二百巻、菅家御撰とあるが、今残欠61巻伝わるのみである。}  《故に、僕、其の松容の教命を蒙ることを得、固辞すること許されず、遂に用(もっ)て修撰す。或は漢語抄の文、或は流俗人の説、先ず、本文を挙げ、正説を、其の注に附出す。若し、本文詳らかならずんば、則ち直に弁色立成、楊氏漢語抄、日本紀私記を挙げ、或は類聚国史、》

万葉集{○「万葉集」二十巻、撰人の名、氏を著していない。} 《万葉集、》

三代式{○「弘仁式」四十巻、弘仁十一年奏進、大納言(藤原)冬嗣卿撰。「貞観式」二十巻、貞観(じょうがん)十三年奏進、右大臣(藤原)氏宗公撰。「本朝書籍目録」を見ると、今、二書(皆)とも亡逸し、 「延喜式」五十巻、(藤原)忠平公等撰のみが今在るのみである。} 《三代式、》

等所用之仮字、水獣有葦鹿之名、山鳥有稲負之号、野草之中女郎花、{○エキ斎按うに、 「葦鹿」「稲負」は、皆、漢字を用いて、倭語(アシカ。イナオウセ。)を書いている。なお、壁帯を間度に作る(「したぢ」を「まど」に作るでよいのだろうか?)は、[舟+共]は「高瀬舟」に作るがごときであろう。「女郎花」に至りては、「女」字は、「乎美奈(オミナ)」と読むことができるけれども、然るに、「郎花」字を、「部之(ヘシ)」とは読むべからず。則ち、「女郎花」の字を用いて、「乎美奈部之(オミナヘシ)」と為すは、仮字(カナ)には非ず。蓋し、「女郎花」は、即ち、「木蘭花」であり、「乎美奈部之」(のヨミ)とはつながり(渉)がない。然りて、則ち、「女郎花」の訓みを「乎美奈部之」とするのは、「女」字によって誤って之に当てたのである。猶お、「禰須美毛知乃岐(ネスミモチノキ)」は、「鼠梓木」をもってこれに充てたり、「久末豆々良(クマツツラ)」をもって「鞭」に作り、「馬鞭草」を之に充てる、そのたぐい(類)といえるだろう。源君は仮借の類と為したつもりだろうが、是にはあらず。}  《等の用いるところの仮名字を挙げたり。水獣に葦鹿の名あり。山鳥に稲負(いなおおせ)の号有り。野草の中の女郎花、》

海苔之属於期菜等是也、{○旧本及び山田本、昌平本、曲直瀬本、下総本は、「属」を「彙」に作る。廣本も同じである。(僧)顕昭の(歌字書)「袖中抄」が改めて引用した尾張本では、「類」に作る。エキ斎按う 。「海苔之類」の四字は「呉都賦」に見える。源君は、蓋し、之を用い、則ち「類」に作り、是に似せたものであろう。然るに、本書「菜蔬部」では、「呉都賦」を引き、「草(早→寓’)」に作り、或は「曇(雲→寓’)」に作るが、皆、「屬」(属)の譌字である。則ち、源君は「呉都賦」を見て、「類」に作らず、尾張本が特に「類」を作るのは、恐らく、後人が、今本の 『文撰』によって改めたものであろう。}  《海苔の属の於期菜等是なり。》

於期菜、所謂六書法、其五曰仮借、本無其字、依声託事者乎、{○『説文 』序に、「周礼八歳入小学、保氏教国子、先以六書、一曰指事、二曰象形、三曰形声、四曰会意、五曰転注、六曰仮借」と云う。「仮借」は第六に在り、此(本文)と異なる。エキ齊按う 。『廣韻』の巻末に「六書目」が載り、「一曰象形、二曰会意、三曰諧声、四曰指事、五曰仮借、六曰転注」と云う。其の「仮借」を注 して「本は其の字なく、声に依り事を託し、令と長の字が是なり(令は長の義をも持つ)」(本無其字、依聲託事、令長之字是也)と云う。蓋し、『唐韻』はこの旧に依っており、『説文』を木〔本〕にしている。但 し、(『説文』の)其次の序では改まっているのである。源君もまた『唐韻』に依ったために、「五曰仮借」といったのであり、『説文』とは同じではないのである。鄭玄は『周礼 』の「六書」に注をいれ、「象形会意転注、處事、仮借、諧声也」と云う。また、仮借の順は第五番目にある。然り、『説文』の次序で得る(六番目)に如かず。また、エキ斎按う 。『説文』序は、今本「六書」の下文の各(それぞれ)には、解釈が有る。「六曰仮借」の下に云う、仮借は「本無其字、依聲託事、令長之字是也」とあるが、孫面’『唐韻』は之 の文に依っている。『後魏江式論書表』は、首巻より秦漢書の論に至るまで、全て『説文』序に依っている。 而して、「六書」についての解釈文は無い。則ち、それを見るところでは、『説文』には、此の語(依聲託事、令長之字是也)は載っていないことを知ることができるのである。況や、その解釈には誤りがあり、小学を学ぶものにとっての大害である。蓋し、隋唐の淺人たちは、晋の衛恒撰『四體書勢』謬説によっており、箋注する者は、誤り[尸⊂羴]入(センニュウ)することとなったのである。決然と、許慎の旧文を非としなくてはならない。}  《於期菜の如き者に至ては所謂(いわゆる)六書の法、その五を仮借と曰(いい)て、本(もと)其の字なし。声に依りて事に託すものか。》

内典梵語、亦’復如是、{○顧炎武「日知録」に「内典字:「冊府元龜」に見ゆ。「唐會要」を引き、開成ニ年王彦、准宣索内典目録十二巻を進す。」と云う。仏氏、中国に入り、六朝の諸君氏は徒に之を好む。後世の学者は、遂にその書を謂うに「内典 」とした。(日知録は続けて云う、)「此自緇流之語、豈得士人亦云爾乎」}  《内典梵語もまた是の如し。》

拠、故以取之、或復有其音于俗{○廣本は「音」を「聲」に作る。}  《拠る所無きにはあらず、故に以て之を取る。或はまた、其の音を以て俗に用いる者あり。》

和名、既是要用、石名之礠石礬石、香名之沉香浅香、法師具之香爐錫杖、画師具之燕脂胡粉等是也、或復有俗人知其訛謬改易、[生]訛為鮭、{○龍魚類を見よ。}  《和名に非ずと雖も、既に是用いることを要す。石名の礠石(じせき)礬石(ばんせき)、香名の沉香(じんこう)浅香、法師具の香爐錫杖(しゃくじょう)、画師具の燕脂(えんじ)胡粉(ごふん)等是なり。或はまた、俗人其の訛謬をしり、改めやすからざりし者あり。[生]が訛して鮭となし、》

榲読如杉、{○木類を見よ。} 《榲を読むに杉(さん)とするが如き。

鍛冶之音、誤渉鍜治、{○男女類を見よ。尾張本、曲直瀬本、下総本は、「鍜治」は「假治」に作る。昌平本は「瑕治」に作る。エキ斎按う。「説文」は、「錏鍜、頸鎧也」という。而して、経典は、是の字を用いる者なく、字を借りて、音を示す。当然に「僻」字を用いるべきを用いず、「假」に作り、あるいは「瑕」に作るは是に似ることなり。然り、源君の意を玩味すれば、「鍛」「鍜」「冶」「治」の字形が相近く、故に俗に「鍜冶」に誤り、「加知」(カチ)を音とすることを言うに似たり。本條の注もまた、「鍜治」に作る。すなわち、この「鍜」に作るのは、恐らく誤りであろう。} 《鍛冶の音、誤りて鍜治に渉り、》

蝙[蛯(老→若)]之名偽用威][夷]{○龜貝類を見よ。} 《蝙[蛯(老→若)]の名偽りて[威][夷]をもちゆる。》 

等是也、若此之類、注加今案聊明故老之説、略述閭巻之談、ハ而謂之、欲於俗便於事忽忘上レ掌、不異名別号、義深旨廣、有上レ煩于披覧焉、{○廣本は、「覧」を「見」に作る。}  《等是なり。此の如きの類、注して、今案を加え、聊か古老の説を明らかにして、閭港の談を略述す。俗に近く、事に便にして、忽忘に臨みて掌を指すがごとくならんと欲す。ハじて之を謂わんすれば、異名別号、義深旨広を披覧するに煩い有ることを欲せざるなり。》

上挙天地、中次人物、下至草木、勒十巻、々中分部、々中分門、廿四部百廿八門、{○廣本は、「廿巻四十部二百六十八門」に作る。今、計(おもんばか)るに、廣本は、部を三十二に分け、類を二百四十九に分けてあるのであるから、いずれの言うところと異なる。}  《上に天地を挙げ、中に人物を次ぎ、下は草木に至り、勒して十巻となる。巻中は部に分かち、部中は門に分かち、二十四部百二十八門。》

名曰和名類聚抄{○「和」字は、舊本通篇「和」字に作る。唯し、序の首篇題、及び下文に記す「倭漢之書」の二つの「倭」字を「倭」に作る。山田本、昌平本も同じである。曲直瀬本は、 序首篇題(「倭名類聚抄序」)及び序中の「至于倭名」「倭漢之書」の三か所の「倭」字を倭に作り、その他は皆「和」に作る。伊勢広本は、此の箇所及び序首篇題、序中の「至于倭名」「倭名本草」「雖非倭名」「倭漢之書」の六か所の「倭」字、及び、第一巻首篇題、並(な)べて倭に作る。序中に「和」名は稀に存すのみにて、第一巻尾以下、毎巻の首尾篇題は皆「和」に作る。那波本は、序については、皆、伊勢広本と同じである。毎巻の篇題のみ改め、「倭」に作る。下総本は、「竊以」以下「三代式等所用」に至る数行が欠け、存する所は、皆「和」に作る。尾張本は、多くが欠逸し、攷すことができない。エキ斎按うに、「説文」は、倭を「順兒」、和を「相應」としている。二字は同じではない。「續漢書」「郡國史」は「倭在韓東南大海中」とある。けだし、「順兒」と訓じた倭字を仮借し皇国の名としたのである。 《名づけて 和名類聚抄と曰う。》

古人有言、街談巷説、猶有{○文選(第42巻)の曹植著「楊脩(徳祖)に与える書」に出てくる。}  《古人に言有り、街談巷説にも、猶お採るべき有らん。》

僕雖誠浅学{○山田本、昌平本には「誠」字無し。}  《僕、誠に浅学と雖も、》

而所注緝皆出前経旧史倭漢之書、但刊謬補闕、非才分所及、内慙公主之照覧、外愧賢智之盧胡耳、{○下総本は「智」は「知」に作る。廣本も同じ。那波本は、「盧胡」は「胡盧」に作る。エキ斎按う。……Sorry Under Construction}  《注緝するところは、皆、前経旧史倭漢の書より出たり。ただし謬(あやまり)を刊(けず)り、闕を補うに、才分の及ぶところに非ず。内に公主の照覧に慙(は)じ、外に賢智の慮胡を愧ずるのみ。》

 

【箋注倭名類聚抄】訳注本文篇制作予定

天地部第一|飲食部第十一

ほか

龍魚部第十八

龜貝部第十九|蟲豸部第二十

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目次

凡例校例提要参訂諸本目録倭名類聚抄總目倭名類聚鈔序巻第八

その1(1-20)(1)龍〔2〕[叫(口→虫)]龍〔3〕螭龍〔4〕蛟〔5〕魚〔6〕鯨鯢〔7〕[孚][布]〔8〕鰐〔9〕鮝魚〔10〕人魚〔11〕 鮪|〔12〕鰹魚|〔13〕[乞]魚〔14〕鮫〔15〕[宣]魚〔16〕鰩〔17〕鯛〔18〕尨魚〔19〕海[即]〔20〕王餘魚その2(21-40)〔21〕[唐]魚〔22〕[魚+椶−木]〔23〕梳齒魚〔24〕針魚〔25〕鱏魚〔26〕鱣魚〔27〕蝦〔28〕騰(馬→魚)〔29〕[喿]〔30〕[]〔31〕[番]魚〔32〕鯆魚〔33〕[夸]〔34〕鰯〔35〕鯔〔36〕[馬]〔37〕鱧魚〔38〕[制]魚|〔39〕[反]魚|〔40〕[侯][頤−頁]魚その3(41-63)〔41〕鰻[麗]魚〔42〕韶陽魚〔43〕[生]魚〔44〕鯉魚〔45〕鮒〔46〕[蚤]〔47〕[時]〔48〕鱸〔49〕[完]〔50〕鱒〔51〕[免]|〔〔52〕鯰〔53〕[頤−頁]〔54〕[庸]〔55〕[囘(巳→又)]魚〔56〕[厥]魚〔57〕鮎〔58〕[是]魚〔59〕鮠〔60〕[末]〔61〕[白]魚〔62〕[小]〔63〕細魚||その4(64〜72)(龍魚体)|

|||その5(73-115)(龜貝類)|その5-2(116-124)(龜貝体)|その6(125-212)(蟲豸部)〔125〕虫

狩谷エキ斎著『和名抄引書』|


和名・一次名称・俗称別引用文献・参考文献引用文中の古書名注引用文中の人名注編者凡例


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