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Ice 001 桑野貢三・氷室エッセイ集

氷室雑話  |(1)|(2)(3)(4)|(5)|(6)|(7)|(8)|(9)|(10)|氷室余話

――――――――――――――――桑野貢三 by Kozo Kuwano

copyrighit 2003-04,Kozo Kuwano

 

(1)   〔掲載:「冷凍」69巻800号、1994年6月号。日本冷凍協会発行〕

 

 「氷室」の桑野と云われながら、本誌平成2年11月号に「韓国・慶州の石氷庫」のレポートを掲載して以来、氷室関係のレポートをしなかった。この間、「冷凍機屋人生」の発行に手をとられ、浜森十氏の「氷のきらめき」の掲載のお手伝いをしていた。
 そんな間にも一つに纏めるほどではないが、多少の構想や材料が集まってきた。
 そこで今回は掲題の様に、いくつかの話題を纏めてみた。御笑覧頂ければ幸いである。

◎ 氷室発見から27回目の還暦


 今年はいぬ年で、干支は十干の最初の甲(きのえ)の戊であり、よいことが開ける年であるという。日本書紀に依れば、「仁徳天皇 62年」に初めて氷室の記録が出ているが、この年は甲戊で皇紀から換算すると西暦の374年にあたる。今年はそれから教えると27回めの還暦を迎え、1620年が経過したことになる。
 それ程、氷の利用の歴史は長いといえる。
 しかし、皇紀は聖徳太子が推古9年(西暦601年)から1260年遡らせた辛酉(しんゆう)の年(BC660)を神武天皇の即位元年としたと言われている。これは中国の讖緯(しんい)説に基づく思想で、干支の組合わせが一巡する60年ごとに変革が起こるという説で、甲子の年には革令、辛酉の年には革命が、特に、一元(60年)の21倍にあたる一蔀(ほう・1260年)ごとの辛酉の年には国家的大変革があるとされた説から定められたものであるという。
 では、仁徳の時代はいったい、いつ頃であったのであろうか。中国文献の「倭の五王」の記録1)では

 

西暦418年 讃が朝貢
同  421  讃に叙綬
同  425  讃が方物を献じた
同  430  讃死し、珍がたつ
同  438  珍より朝貢がある


とされており、讃は応神・仁徳・履中ではないかとされ、珍は仁徳または反正と考えられている。この頃は2倍暦(一年を「秋収→春耕」の半年と「春耕→秋収」の半年をそれぞれ一年として計算する暦)が用いられていたことや他の文献類から当たってみると、前記の記録からも430年前後が氷室元年頃になるかも知れない。
 いずれにしろ、わが国での氷の利用の歴史は、1560年以上はあると思うので、よいことがあるという甲戊の今年が、この業界から景気回復の兆しが出ることを期待したい。


◎奈良・平城氷室神社の近況


 昨年、久しぶりに奈良を訪ねた。勿論、氷室神社を参拝した。同社大宮宮司はかねてから、境内整備に力を尽くしておられたが、何年ぶりかで詣でるとだいぶ、境内は整えられていた。
 正面の鳥居が新しくなり、社域周囲は玉垣が新設され、その1本ごとに奉納者の氏名が刻まれているのはどの神社でも見られる通りで、参道にもこの事蹟の碑が建てられていた。(図1、2参照)

図1 氷室神社正面(88.11現在)

図2. 氷室神社正面(93.8現在)

 宮司の大宮兼守さんは氷業界で信仰の厚い同社に永く奉仕されており、本誌24巻・第263〜264号・(昭和24年)に「氷の歴史」を掲載されており、私はこの記事で氷にまつわる事を勉強するきっかけとしたのである。
 同氏は昨春以来、病気療養中であったが、薬石効なく、昨年9月6日に学年76才で逝去された。葬儀は嗣子の大宮守人氏が喪主となり、「なら山会館」で執行され、大阪氷雪環境同業組合加藤理事長をはじめ氷業関係者多数が会葬されて盛儀であったという。同氏の冥福をお祈りする。また、同社は前記守人氏が継承される2)

◎「氷室」姓に就いて

 新聞などで「氷室」という姓がときどき見受けられる。小説家の「氷室冴子」や、このところあまり見かけないが歌手の「氷室京介」などがいる。岡山県飾磨郡夢前町にある氷室神社の氏子は「氷室」姓の方が相当おられることは同神社の玉垣の石柱には氏子総代の氷室和昭氏ほか数人が姓名を刻んで本納されていることでわかる。
 そこで氷室和昭氏にお手紙を差しあげて姓名の由来をお伺いしたが残念ながら返事を頂けなかった。やむを得日本姓氏大辞典3)で「ヒムロ」をひいたところ、


  「氷室」“伊勢・出雲・下野などの同地名を負う。弓削姓・紀姓など”


とあり、また、別の姓氏辭典4)では


 伊勢・出雲など氷室庄、その他下野などにこの地名存す


さらに、


 3.後醍醐帝裔 尾張津島神社舊社守にして神主家たり、南朝伊良親王の御子・良王の弟・氷室良新(母は源世良田右馬助政義の女)の後なりとぞ。巻頭皇室御系図参照 氷室兵部少輔等ものに見え、又氷室兵庫豊長(兵治、実は松井氏)は国学者、椿園号す。
又同社神楽方に氷室氏あり。又愛知郡名古屋若宮八幡社神主家も氷室氏也。その他、津島、大橋の條参照。
 4.下野の氷室氏 芳賀郡氷室邑より起こる。乙貫條参照。


とある。
 前注記より同書の皇室御系図を参照すれば、“第96代・後醍醐天皇の第8皇子の説ある宗良親王(母・藤原為子)の子伊良親王(母・藤原道政の女)の第2子、氷室良新とあり、神主としての系統である。
 また、参照記事より“大橋・乙貫(オツツラ)・津島”の項をめくってみた。


 「大橋」屋張の大橋氏(平姓)は豪族にして桓武平氏の大橋市(肥後国山本郡大橋邑より起こる)と同族なり、海部郡津島四家七苗字の一。
 「乙貫」下野国芳賀郡乙貫郷より起こる。無住法師雑談集に「宇都宮、紀の党の中に乙貫新左衛門尉(芳賀郡乙貫郷氷室村里正)と云う精兵あり」と見ゆ。
 「津島」津島神社社家、尾張国海部郡
 津島神社は当地方屈指の大社にして神主・氷室氏、神宮・堀田氏、河村氏等皆同族也


 とある。

 前述の氷室兵庫豊長に就いては「日本人名大事典」5)に次のようにある。


 氷室長翁(ナガトシ)(1784〜1863)
 歌人・姓は紀、初名、豊長、通称兵治、号椿園、天明4年正月生、名古屋藩士・松井小十郎弘喬の二男、同国津島神社の神主・氷室種長の女陣子に配し、その家を継ぐ。若きより歌道にいそしみ、文政初年、香川景樹の門に入り、上手の名を得、文久3年10月没


とある。
 津島神社は「全国神社名鑒」6)に依れば


 祭神・建速須佐之男命・大穴牟遅命、例祭6月1日(津島市神明町)氏子1万戸。
 由緒 欽明天皇元年の鎮座と伝え、古来疫病除けの守神。弘仁元年(531)、正一位の神階と日本総社の号を賜う。鎮座以来、歴代の武門・貴餞からの導信された。特に織田・豊臣・徳川の各氏からの崇敬が厚かった。関東・東北にわたり多く分霊社あり


と記されている。
 これらの記録から氷室氏は神職系と判った。
 はたして夢前氷室社の氏子達はこれらのどの系統であろうか。判らないが正しい血統の方々であろうか。
 さて、現代の氷室さんの生い立ちはどうであろう。
 「氷室冴子」7) 昭和32年生まれ、藤女子大国文学科54年卒、青春小説新人賞「さようならアルルカ」(S52)少女小説の代表的人気作家、とあった。しかし驚いたことにこれはペンネームで、北海道出身の本名は碓井小恵子さん、どうして氷室を名乗ったか伺ってみたい。
 もう一人の「氷室京介」8)さんは間違いなく本名。ミュージシャン・昭和35年生まれ、群馬県出身、29回日本レコード大賞金賞、グループ名BOOWY’63年バンド解散、ソロに転向。
 彼は下野・氷室の血筋か?。

◎暑月薨者給氷

 伝統のある神社を詣でると「式内社」という説明がなされてることがある。この「式内社」は延喜式の巻9・10の神名帳に記されている神社で、全国の3132座(2861社)に及ぶ社が列記されている。いずれも1千年以上の歴史を持っていることを示しており、社格を権威付けるものとされている。この延喜式は表1に示すように律令の制定から格式の編集への最後のもので(表2参照)、905年、醍醐天皇の勅命で左大臣・藤原時平が主宰して編集を始め、「弘仁格式」「貞観格式」を纏めた50巻に及ぶものである。この中に「氷室」を担当する役所として「主水司(もんどのつかさ・もひとりのつかさ)」の規定があり、年間に行う行事の方法などが詳しく定められていることは既にレポートされている。

表1 律令の制定

西暦 和歴 律令名 製作・施行 巻数 編纂関係者

671

近江令 施行 22 藤原鎌足ら

飛鳥浄御原律  
687 飛鳥浄御原令   22
701 大宝元 大宝律 製作 6 刑部親王ら
    大宝令 製作 11
720 養老4 大宝律・同令 施行  
718 養老2 養老律・令 製作 10 藤原不比等ら
757 天平宝字1 同   ・同 施行  

表2 格式の編集

西暦 和暦 格式名 製作・施行 巻数 編纂関係者
820 弘仁 11 弘仁格 製作・施行 10 藤原冬嗣ら
    弘仁式 同 ・同 40
833 天長 10 令義解 製作 10 清原夏野ら
834 承和  1    施行    
869 貞観 11 貞観格 製作・施行 12 藤原氏宗ら
871 同  13 貞観式 製作・施行 20 藤原氏宗ら
901〜923 この間に 令集解 製作 30 惟宗直本ら
907 延喜  7 延喜格 製作 10 藤原時平ら
908 同   8    施行    
927 延長  5 延喜式 製作 50 藤原忠平ら
967 康保  4    施行    

 この主水司は大宝律令に見え、当然引き継いで定められた養老律令にもこの定めが出ていた筈である。しかし、残念ながら養老律令は散逸してしまったが、「令義解(りょうのぎげ)」に依って、その大部分が伝えられている。
 令義解は養老律令の解釈を統一する為に額田今足(明法博士)が、63代淳和天皇(823〜833)に上申して右大臣・清原夏野らに編纂させたものであり、天長10年(833)に完成している。
 令義解は30編10巻からなり、その巻1の職員令の中にも「主水司」の項がみえる。
 これを見ると延喜式よりは簡単で次のように記されている。


正一人、掌樽水。*[−反+亶=セン、カユ]粥及氷室事。佑一人。令史一人。水部四十人。使部十人。直丁一人。駈使丁廿人。水戸。


 即ち、主水正ほか70数名の陣容によって、給水から氷室の管理まで任せられていた。
 さらに巻九・喪葬令(第廿六)には、まず先帝の陵をどの様に維持するか等の規定があり、皇族・重臣の喪葬規定が定められている。さらに僅か一行ではあるが、次のような規定がある。

  凡親王及三位以上暑月薨者。謂六月七月。給氷。

 即ち、親王や皇族または三位の貴人が夏(旧暦6・7月)に亡くなったときには遺体を埋葬するまでの間の保存用に氷が給されたのである。
 その氷の量がどの位であったのか、また、ドライアイスと違って溶けた水をどのように処理したのであろうか。「殯(もがり:貴人の本葬前に仮に死骸を納めて祭ること)」の期間が相当あったと思うので、氷で冷やされた遺体の腐敗や臭気の発生をどの程度押さえられたか、などといろいろな疑問が出てくる。
 この規定は「唐制」に依ったもので、その対応は仁井田陞氏の「唐令拾遺」の「諸職事官三品以上、散官二品以上、暑月薨者、給冰」に示されている。
 “親王及三位以上”の階位に給すの規定は氷が如何に貴重かを示すものと伺われる。
 また、“薨”の字が使用される位階を「皇室事典」9)で引いてみたが次のようである。


“薨去” 皇族並びに王公族の場合を薨去または薨御と申す。又従三位・勲三等以上の者の場合にも用いる。なお、正四位以下、従六位までを「卒去」、正七位以下の場合を「死去」と区別して官報で公示される。

 なお、天皇・太皇太后・皇太后・皇后の神去りましたときは「崩御」又は「登遐(とうか)」「晏駕」と申す。また、崩御は外国の皇帝の場合にも用いられる。


 と、この前項にある。
 “薨”の字が用いられるのは近頃ついぞ見なくなった。

◎「都祁氷室神社史料(二)」の発刊

 昭和63年に平城京の長屋王邸跡地より発掘された木簡から天理市福住町にある「都祁氷室」が注目され、テレビの影響もあり、ここを見学する人々が増加し、また、同所を管理している都祁氷室神社が詣でられた。10)
 ここの宮司の森本藤雄さんは昭和61年3月に「氷室神社史料」を刊行されているが、その巻頭言で「昭和九年、氷室神社の社掌拝命してから五十余年の歳月、私生涯は氷室神社の神職として奏仕させていただきました。…中略…人皇第十九代允添天皇三年に当神社は御鎮座と古記に記されていますから、逆算いたしますと千五百七十余年の歳月を経ています。…中略…永い歳月に亘る神社の沿革史・その時代の事績・出来事を記したものが同一つ神社に保存されていません。…中略…私は在職中の、出来事と神社の由緒に繋る土地或は宝物として家に伝わる什器の奇進、御神徳の顕揚を願い神社興隆のため御活躍をしていただいた氏子総代の事績を記録にとめておくことが神職としての責務と思いまして…中略…集めたものを纏めました」とある。
 内容は同社の年表・沿革・氷室の旧跡に係わる事項、社宝・財産目録とその沿革などについて記載されている。特に私が「氷の神々を尋ねる」11)で紹介した日本書記に記されている同社の祭神である「闘鶏稲置大山主命」の墳墓であるとされている塔の詳細な図面・関係資料が大変貴重であり、参考になる文献であった。
 平成5年8月に森本宮司は前資料に引き続き、掲題の「氷室神社史料(二)」を発刊された。
 この「はじめに」には長屋王邸跡より木簡出土の経緯からTV放映当時の事情、前書発刊後に集まった資料などの収録の目的などが書かれている。本書には先ず、社殿・伝承大山主命墓所・氷室跡等のほか多数の写真73点を47ページにわたってカラーで掲載しており、前書の184ページに対し、310ページの大冊となっている。
 内容は62年3月以降の年譜に始まり、社掌松本重太郎氏記述の由緒書、日本書紀巻第十一(天地図書館蔵)・元要記(石崎文庫)のコピーが光る。また、長屋王木簡関連記事に続き、私の「氷の神々を尋ねる」他の関連レポート・野村恵智雄氏の「氷室の一資料」・井上馨先生の論文「都祁の氷池と氷室」の他十数編の関連論文・レポートが掲載されており、氷室関連のレポートの総集編として貴重で便利な資料である。本書は(社)日本冷凍協会に蔵書されている。なお、氷室神社は下記の場所でJR・近鉄天理駅前からバス(奈良交通・三重交通)で国道・福住下車が便利である。是非とも奈良方面に出かけられたときは足を伸ばして参拝されることを希望する。


  天理市福住町 氷室神社(〒632-01)07436-9-2971
  宮司 森本藤雄

文献
1.見田禎造:古代天皇長寿の謎、六興出版、東京(1985)。
2.日本冷凍新聞、9月20日号(482号)。p10.(1993)。
3.丹羽基二:日本姓氏大辞典、p146.角川書店、東京(1985)。
4.大田 亮:姓氏家系大辭典、(第1〜3巻)、角川書店、東京(1963)。
5.全国日本人各大事典5、p262、平凡社、東京(1938)。
6.全国神社名鑒(上)、p632、史学センター、東京(1977)。
7.現代日本人名緑(下)、日外アソシエーツ、東京(1987)。
8.現代日本人名録90(下)、日外アソシエーツ、東京(1990)。
9.井原頼明:皇室事典、p245、冨山房、東京(1982)。
10.桑野貢三:冷凍、64(778).109〜115(1989)。
11.桑野貢三:冷凍、60(689)。168(1985)。

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